眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
午前九時を少し過ぎた頃。
署の裏口から出た早瀬は、小さくあくびを噛み殺しながら、ゆっくりと歩き出した。
まぶたの裏が熱を持ったように重たい。

けれど、頭の奥はまだ妙に冴えていて、
今夜のことを何度も、何度も、繰り返し考えてしまう。

──間に合った。

それだけで、全て報われたような気もするし、
それだけじゃ足りない気もする。

重度の熱中症。
「でも、命の危機は脱しました」
朝岡さんのその言葉が、ずっと胸の奥に響いている。

川野結咲という、名も知らなかった小さな命。
あの瞬間、彼女はあの部屋の中で確かに「生きていた」。
それを守るために、動いた全ての人間の中に、自分もいたことを誇りに思っていた。

それと同時に。

ふと、あのぐったりとした姿で、パトカーの後部座席に座っていた佐原花音の姿がよみがえる。
汗だくで、化粧は泣いて崩れ、髪もボサボサ。
それでも最後まで、一度も自分から弱音を吐かなかった。

「……あれで大丈夫って、言うんだからな……」

ぽつりと呟いた声は、誰にも聞かれていない。
けれど、それが素直な本音だった。

“佐原さんの『大丈夫』は、あんまり信用ならないんだ”

仕事柄、子どもを守るために無理をする大人を、山ほど見てきた。
でも、あそこまで自分を後回しにして、子どものことばかり考える人間は、そうそういない。

それが、職務なのか、信念なのか、それともただの優しさなのかはわからない。
ただ、どうしようもなく胸が締めつけられる。

送らせてください、と何度も言ったのは、
心配よりも、あの人を“独りにしたくなかった”からだった。

でも彼女は笑って、
「ふらついてないですから、大丈夫です」と言った。

その笑顔が、痛かった。

──あれで、よく笑えたな……。

首を振る。
いろんな感情が入り混じって、うまく整理できない。

とりあえず今日は寝て、何も考えずに寝て、
それでもまだ気になるようだったら……どうする? 何か言うか? 伝えるか?

「……いや、無理かもな……」

一人ごちた声が、朝の空に吸い込まれていった。

踏みしめるアスファルトが、日差しにじりじりと焼かれている。
夏の終わりは、まだ少し遠いようだ。

けれど一つだけ確かに、
この夏の夜を、命を、誰かが必死に守ろうとした記憶だけは、
早瀬の胸の中で、静かに、確かに、刻まれていた。
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