眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
水族館の照明は落とされていて、展示水槽の中だけが、青く、静かに光っていた。

花音は、クラゲの展示の前で足を止める。
ふわり、ふわりと、透明な体を漂わせるクラゲたち。
重力から解放されたようなその動きに、花音はなぜか見入ってしまう。

「……きれいですね」
小さくつぶやいた声が、水に吸い込まれるように響いた。

隣にいた早瀬が、ほんの一歩、距離を詰める。
肩が触れるわけじゃない。でも、その気配が、ぴたりと肌の近くに感じられた。

「ぼく、クラゲってずっと苦手だったんですけど……こうして見てると、なんか、守ってあげたくなりますね」
冗談めかして笑う早瀬に、花音は目を丸くして、

「クラゲに……? 優しすぎません?」

「そうですかね。なんかこう、何も悪くしてないのに、波に巻き込まれて漂ってる感じが……少し、他人事じゃないというか」

その言葉に、花音の胸の奥が、どくん、と鳴った気がした。

目の前のクラゲに、自分の姿を重ねたことはなかった。
けれど、誰にも責められないのに、傷ついて、ただ流されるように動いていた──あの夜の自分を思い出していた。

「……優しいですね、早瀬さんって」

ぽつりと漏らすと、早瀬は少し照れたように目を逸らした。

「よく言われます。……猫にも」

「それ、自分で言っちゃいます?」

思わず笑ってしまった花音の声が、水槽の青に滲んでいく。

ふと気づけば、さっきよりほんの少し、ふたりの距離が縮んでいた。
肩と肩が、指一本ぶんくらいの近さ。

だけど、花音はその距離を戻さなかった。
それどころか、心のどこかで、もっと近くに寄ってしまいそうな自分がいることに気づいていた。

――それはまだ、「恋」って言葉にするには早すぎる。
けれど、早瀬匠という人が、少しずつ、花音の“安心”の記憶に染み込んでいくような、そんな予感だけは確かにあった。
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