眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
水族館の出口近くにあるカフェは、照明も控えめで、ほんのり潮の香りが漂っていた。

ガラス越しに見えるのは、ゆるやかな人工の海辺と、泳ぐペンギンたちのシルエット。

花音はアイスティーを、早瀬はホットコーヒーを手に、並んでソファ席に座っていた。

しばらく無言のまま、それぞれに水槽の余韻を感じていたが、ふと早瀬が言った。

「……さっき、佐原さんが“過去一頑張った”って言ってたじゃないですか」

「え?」

花音は笑いながら、少し顔を赤らめる。

「思い出してたんです。自分がこの仕事を選んだときのこと。……きっかけみたいなもの、佐原さんにもあるのかなって」

「きっかけ……」

花音は少し黙ってから、アイスティーのグラスを指先でゆっくり回した。

「……高校生のときに、仲の良かった友達がいたんです。美佳って子で」

「うん」

「明るくておしゃべりな子だったけど、家庭のことを話すときだけ、急に黙る子でした。……遅刻や欠席が増えて、授業中にふらっと出て行ったり。ある日、何も言わずに学校の二階の窓から飛び降りて、脱走したこともあって……騒然としました」

早瀬の表情がわずかに変わる。

「そのとき、警察も動いて──彼女は、別居していたお父さんの家にいたってわかったんです。でも、その後も学校にはほとんど来なくなって。来ても、教室で荒れたり、怒鳴ったり、物に当たったりしてて……結局、退学勧告が出されました」

その手がぴたりと止まる。

「担任の先生がね、学年集会でこんなこと言ったんです。“大人が、子どもをダメにすることだってあるんです”って」

「……」

「今でも、忘れられない言葉です。あのとき、私は彼女を助けられなかった。何もできなかった。……今でも夢に出てくるんです、もっとできたんじゃないかって。だから、あのときの自分に言ってやりたい。『大人が守ってやらなきゃダメなんだ』って」

語り終えた花音の目に、薄く光がにじんでいた。

早瀬は少しだけ深く座り直し、自分のカップを見つめながら話し出す。

「……僕にも、似たような過去があります」

花音が目を向けると、彼は静かにうなずいた。

「小学校のとき、仲の良かった友達がいました。孝介っていう子。明るくて優しい子でした。ちょっと照れ屋で、無口なところもあったけど、動物が好きで、絵がすごく上手くて……よく一緒に鬼ごっこして、カード交換して、笑ってました」

「……」

「ある日、学校に来なくなって……あとで知ったんです。孝介は、母親と無理心中を図ったって。アパートの一室で、ふたりで。産後うつだったそうです。孝介は亡くなって、母親だけが助かった。刑事責任は問われなくて……責任能力がないってことで」

花音が、息を呑む。

「その後、母親は精神科の病院に入退院してるって聞いてます。……僕は、ただ無力でした。何が起きたのか、当時は理解できなかった。だけど──あの春の日のニュース映像が、今でも頭から離れない。あの光と、テロップの文字と、信じたくなかった言葉」

早瀬の声は、どこまでも静かだった。
怒りでも悲しみでもなく、ただ、真実を見つめるような口調だった。

「そのとき、決めたんです。『もう、こんなことは二度と起こさせたくない』って。それで警察官になりました。……でも、現実は思ってたより、ずっと難しいですね」

「うん……」

ふたりの目が、自然と合う。言葉はなかったが、それでも、どちらの胸の内も、確かに触れ合っていた。

「……知れてよかったです」

花音がぽつりと呟く。

「え?」

「なんか、私だけじゃないんだなって。勝手にひとりで頑張ってた気になってたかもしれないって……思えて」

早瀬は、微笑んでグラスを持ち上げた。

「じゃあ、同士ですね」

「……同士、ですか」

「はい。“子どもを守りたいと思った過去のある人同士”」

花音は、恥ずかしそうに笑いながら、グラスをそっと重ねた。

静かなカフェの中で、ふたりのあいだに流れる空気が、ゆっくりと、温かく満ちていくのがわかった。
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