眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
食後の食器を片づけ、2人はソファで並んで湯呑を手にしていた。
テレビは消してあり、部屋の明かりは柔らかな間接照明だけ。
静かで、でも心地よい沈黙が流れていた。

匠がそっと口を開く。

「……そろそろ、帰ろうかな」

花音は、湯呑のふちを指でなぞりながら小さく頷いた。
ほんの少し、寂しさが胸に滲んだ。

(……思えば今日はすごい一日だった)

初めてのデートで、家に迎えに来てもらい、彼の実家に突撃訪問して、
そのまま自分の家に招いて、手料理をふるまい、ソファで向き合って過ごした。

──あんなにも恋愛に臆病になっていた自分が、まるでそれを取り戻すかのように、大胆な一歩を踏み出していた。

(でも……)

匠は、そんな自分の全部を、驚くこともなく、当たり前のように受け止めてくれた。
淡々と、でもどこまでも優しく。

その甘さに酔ってしまいそうになりながらも、同時に芽生えていたのは、尊敬だった。

(……こんな人になりたい。こんな風に誰かを支えられる人に)

この人となら、きっと温かい未来を歩いていけるかもしれない。
信じてみよう。そう思った瞬間——

「……大丈夫? 花音」

その一言で現実に引き戻された。

気づけば、花音は思案にふけるような顔をしていたらしい。

彼の心配そうな表情に、花音はふっと微笑んだ。

「……うん、大丈夫」

そして、湯呑をテーブルに置くと、少しだけイタズラっぽい声で言った。

「たくみさん、一人でちゃんと帰れる?」

まるで子どもに聞くみたいな口調に、匠は肩をすくめる。

「……帰れないかも」

「じゃあ、おまわりさん呼ぶ?」

花音が笑いながらそう言うと、匠もつられて吹き出した。

「俺、おまわりさんだから……頑張って帰るわ」

そう言いながら、花音の頭をやさしくポンッとなでた。

その手のぬくもりに、花音は目を閉じて一瞬だけ身を預ける。

言葉のいらない時間。
でも、名残惜しさはお互いに隠せなかった。

数秒見つめ合い、やがて花音が静かに言った。

「……おやすみなさい」

匠も、ほんの少し目を細めて頷いた。

「おやすみ、花音」

ドアの閉まる音は静かだったけれど、心に残ったぬくもりは、あまりにも大きかった。
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