眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
昼休憩をまたぐように、会議室の一角に4人の職員が集められた。
佐原花音、三宅、金子、鈴木。
そして、産休間近の山口遥香が、ファイルを何冊か抱えてやってきた。

「じゃあ、ざっくりだけど、割り振りの確認から。」

朝岡が配布資料を手に進行を始める。
山口の8件は、それぞれの負担や専門性、傾向を加味して均等に振り分けられた。

「佐原さんには、川野結咲ちゃんの支援が一段落する見込みなので……2件。1つは生活困窮系の継続支援、もう1つはちょっと重め。」

花音の目の前に置かれたファイルの背には、見慣れない名前。

「赤尾悠真くん。8歳、小2。ネグレクト傾向と多動、かなり不安定な子で……このケースは慎重に見てほしい。」

山口がその場でファイルを開く。いつもの朗らかな顔から一転して、少し真剣な眼差しで花音に向き直る。

「この子ね……うまくいけばすごく懐いてくれるんだけど、警戒心が強くて、最初はシャットアウトしてくると思う。」

「学校からの通告が主なんですよね?」

「そう。母親は基本連絡つかないし、住民票の住所にいないこともしょっちゅう。ただ、悠真くんは転校せずに学校には来てる。ぎりぎりのラインで、虐待とは断定されにくい、でも“置き去り”になってるタイプの子。」

花音はファイルをめくる。
栄養状態の記録、保健室での発言記録、担任の個人メモまでがびっしりと綴られていた。

「いまは家庭訪問のスケジュールを組んでも、玄関に出ない。声をかけると、子どもが小さく“いるけど出るなって言われた”って……たまに聞こえる。」

「……しんどいですね。」

花音が小さくつぶやくと、山口が少し表情を和らげた。

「でもね、佐原さんには向いてると思った。悠真くん、言葉の節々に“見てほしい”“誰かに頼りたい”って気配はあるの。」

「怖さはあっても、完全に人間不信ではないってことですね」

「うん。それに、佐原さんなら最初から“この子をどうにかしなきゃ”って焦らずに、ちゃんと“関係を作る”ところから始められる気がしてる。」

花音は小さく息を吐きながら、ファイルを閉じて、深くうなずいた。

「……ありがとうございます。引き継ぎ、しっかり受け取ります。」

山口はほっとしたように笑った。

「じゃあ、最初の家庭訪問は私も同行するよ。産休入る前の最後の現場になるかもしれないけど、そこまでは一緒にやろう。」

「心強いです、お願いします。」

小さく交わされた視線に、言葉にしきれない思いがにじんでいた。
ケースの重さと共に、それを託す信頼も確かに伝わってくる。

会議室の窓から見える空は、梅雨の晴れ間にしてはやけに明るかった。
花音は胸の奥に小さな決意の火を灯しながら、ファイルを自分の膝に抱えた。
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