眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
朝の空気はまだ少しひんやりとしていて、移動中のバスの車窓に淡く光が差し込んでいた。

花音は膝の上に開いたファイルを見つめながら、赤尾香澄の名前の横に貼られた付箋に、自然と指先が触れる。

赤尾香澄――小学2年の息子・悠真を育てるシングルマザー。
もともとは看護助手としてフルタイムで働いていたが、出産を機に退職し、それ以降はパートや短期バイトを転々としている。

過去に「抑うつ状態」と診断されたことが記録にあり、通院歴もあった。ただし現在は治療機関との接点が切れている。
前任の山口からは、「香澄さんは“頑張りたい”気持ちはあるけれど、感情の波が激しく、支援者との信頼関係が揺らぎやすい」と申し送りを受けていた。

児相に最初に相談が入ったのは、悠真がまだ年長の頃。
保育園から「母親が息子を離さず、心理的距離が非常に近いこと」「情緒のコントロールに難があるようだ」との指摘を受けたのが始まりだった。

以降、数ヶ月おきに香澄の情緒不安や過保護的な育児への懸念が浮かび、山口が継続的に関わってきた。

“悠真くんの成長のために、親子の適切な距離を取れるかどうか”が、ケースの大きな鍵になっている。
香澄は愛情深い母親だ。
ただ、その“深さ”がときに息子の自由を奪い、本人をも苦しめているように見える。

花音は心の中でそっとため息をつく。
自分も、きっと“正解”の育児なんて誰も知らないと知りながら、それでも子どものために介入を求められる。
その役割の重さは、やはり時々、心にズシンと響いてくるのだ。

「……さあ、今日の赤尾さんは、どんなコンディションかな。」

ファイルを閉じ、立ち上がると、スマホの時間が訪問予定の10分前を知らせていた。

責任は重い。それでも、逃げないと決めた。
それが、“あの時”の後悔に対する、自分なりの答えだった。
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