眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
山口から受け継いでから、3回目の家庭訪問。

これまでの2回も、インターホンを押しても反応はなく、外から気配だけを読むようなやりとりが続いていた。
2回目は、小さな子どもの声が確かに聞こえた。

「……いるけど、出るなって言われた」

あの声を思い出すだけで、胸の奥がざわつく。
悠真くんは「放置されている」けれど、「完全に孤立している」わけではない。

その微妙なグレーゾーンが、かえって花音の足を重くしていた。

赤尾家の前に立つ。
いつもと変わらない、無機質な集合住宅のドア。
インターホンのボタンに指をかけ、軽く深呼吸をして押した。

……無反応。

二度目。
三度目。
応答はなかった。

「……赤尾さん、児童相談所の佐原です。お時間少しだけでも、お話できませんか?」

声をかけるが、やはり沈黙だけが返ってくる。

(いる。たぶん、いる)

玄関の扉の向こうから、ごく微かに何かが動いた気配を感じた。
テレビか、足音か、換気扇か。
それさえも確証はない。

花音はドアの前に数秒間立ち尽くしたまま、記録用のメモ帳を開いた。

「居留守の可能性あり。反応なし。再訪検討。児童の安全確認は引き続き優先。」

筆圧だけが、焦りと苛立ちを物語っていた。

すると、階段の上から誰かが降りてくる気配がした。
顔見知りの住人らしき中年女性と目が合う。

「あの……また、あそこの子の?」

小声で尋ねられた花音は、静かに頷いた。

女性は少し気まずそうに目をそらしながら言った。
「最近あの子、夜中に1人でウロウロしてるの見たって人もいて……でも、言いにくくてね……」

花音は軽く会釈をし、「貴重な情報をありがとうございます」とだけ返した。

人々の“薄い関心”と、“分厚い壁”。
その両方の狭間に、悠真という子どもは揺れている。

一歩引いて記録写真を撮り、花音はゆっくりとその場を後にした。
背後にある沈黙が、なにより重く感じられた。
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