眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
午後の陽射しが斜めに差し込む児相の執務室。
花音は黙って自席に戻ると、ジャケットを椅子にかけ、パソコンを立ち上げた。

デスクの端には、汗を吸ったファイルと、赤尾悠真のケース記録。
目を閉じても、応答のなかった玄関の静けさと、インターホン越しの虚しさが浮かんでくる。

「……本日9月4日午後13時、赤尾香澄宅を訪問。インターホン複数回押下・声かけ実施も応答なし。在宅の可能性は高いが、接触には至らず。近隣住民より、夜間に児童が一人で外にいたとの未確認情報あり。リスク要観察。」

淡々と記録を入力していると、背後から三宅が顔をのぞかせた。

「戻ってた。……ダメだった?」

花音は「はい」と小さく頷いた。

「在宅っぽいのに、また完全な居留守。今度は悠真くんの声すらしなかったです」

「三回目だよね。ちょっと様子が変わってきてるな」

三宅が真顔で言ったところに、金子も資料を抱えてやってきた。

「そろそろステージ上げる?リスク管理の観点で言えば、もう『グレー』のギリじゃない」

「はい……でも、正直迷ってます。悠真くん、どこかで“助けて”って思ってるのは伝わる。でも香澄さんが完全にシャットダウンし始めてて……」

花音の声に、金子が「わかるけどね」と息をつく。

「でもそれってさ、あの子の命綱が一本切れたってことでもある。学校がもう少し支えられるなら別だけど、担任も結構消耗してたよ。家庭内だけじゃなくて、学校での行動もちょっと不安定になってきてる」

「そう……ですね」

すると、朝岡がちょうど席から出てきた。

「佐原さん、赤尾くんの件、今日の対応結果だけでいいから5分でまとめて、夕方のミニミーティングで扱いましょう。今後の支援方針も含めて検討したい」

「はい、すぐまとめます」

「山口さんがいないぶん、現場の判断がそのまま施策に直結するから。負担も大きいけど、よろしく頼む」

「……わかりました」

花音は静かにうなずいた。

誰かの背中を追っていればよかった頃とは違う。
今は、自分が「判断する側」にいる――その重みを、日々、身体で感じている。

三宅が小さく「頑張れ」と声をかけて離れていく。

花音は缶コーヒーをひと口飲み、まだ熱のこもる記録画面に視線を戻した。

薄く開いたウィンドウの奥に映るのは、窓の外で揺れる木々。
季節の移ろいも知らぬふりで、日常の危うさは静かに続いていた。
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