眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
玄関のドアを閉めると、足元から一気に力が抜けた。
花音は鞄を置くのもそこそこに、ソファに沈み込む。

靴を脱ぐのも忘れていた。
鞄の中から、ファイルの角だけが覗いている。――赤尾悠真。

ゆっくりと目を閉じた瞬間、何かがほどけるように、ぽろりと涙がこぼれた。

「……はあ……」

声にならない息が漏れる。
それが引き金だったかのように、次から次へと涙があふれ出す。

張り詰めていたものが、静かに、でも確実に崩れていく。

――どうすればいいのかわからない。

川野美咲のときも、難しい案件だった。
だけど彼女は、電話に出た。
約束をすれば、家庭訪問にも応じてくれた。
少なくとも、「接点」は保たれていた。

でも、今回は違う。
赤尾香澄は、まるで花音の存在そのものを“拒絶”している。

家にいても出ない。
玄関に足音が聞こえても、無視される。
声をかけても返事はない。
学校ももう限界。

花音は、自分が「何者にもなれていない」感覚に襲われていた。
支援者としても、繋ぎ手としても、何一つ届いていない。

――“関係を作るところから”って、自分で言ったくせに。
それすら始められていない。どうしようもなく、遠い。

ひとつ深く息を吸い込もうとして、喉の奥がつまってうまく呼吸ができなかった。
胸の奥にある重たい石のようなものが、ずっと圧し掛かっている。

このまま、何もできずに――終わってしまうのかもしれない。

そんな考えが、一瞬でも脳裏をかすめた自分が怖くて、花音は目を開けた。

その視界の先に、母が撮ってくれた実家の黒猫「マロン」の写真があった。
少しほころんだ額縁の中で、くるりと丸まって眠るマロン。
その柔らかい毛並みと、どこか気の抜けた表情が、ほんの少しだけ花音の心を緩めた。

「……まだ、大丈夫。まだ、いける」

声に出すと、ほんの少しだけ呼吸が戻ってきた。

明日はまた、玄関を叩くかもしれない。
無視されるかもしれない。
でも、それでもいい。
今は“そこ”から始めるしかないのだから。

花音はようやくソファから立ち上がり、靴を脱いだ。
ひとりの夜が、静かに、また始まる。
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