眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
9月中旬。

雨は静かに、しかし容赦なく地面を叩いていた。
傘の縁からしたたる水音が、花音の耳にしみ込む。
赤尾宅に近づくにつれて、空の色はますます鈍く、重くなる。

心にひっかかるものがある。
学校からの無断欠席の報告、電話に出ない母親。
あのときの「夜泣き」という言葉がずっと頭から離れなかった。

インターホンを押す。反応はない。

(いるはず。悠真くん、今日はまた欠席してる)

もう一度、今度は少し強く押す。
玄関の向こうから、かすかな物音。

「……いる」

花音は傘をたたみ、雨の中で小さく息を整えた。
扉に向かって、声をかける。

「赤尾さん、佐原です。必ず力になります。見捨てません。あなたがどんな状況になっても――」

少しして、ゆっくりとドアが開いた。

出てきたのは、悠真くんだった。
ぼさぼさの髪、目の下にくっきりとした影。
それでも、花音の顔を見て「……お母さん、寝てるの。お薬飲んでる」と、静かに言った。

「入ってもいいかな?」

小さく、でもはっきりと、頷く。

家の中は薄暗く、カーテンは半分閉じられていた。
リビングを抜けて奥の寝室へと足を運ぶと、香澄がいた。

ベッドに背中を預け、地べたに座り込んでいる。
ぼんやりと一点を見つめるその目は、どこか虚ろで、でも完全には抜けていない。

「香澄さん、佐原です。……大丈夫ですか?」

声をかけると、反応はあった。ゆっくりと顔をこちらに向ける。

「……私がちゃんとしないから……悠真、学校にも行けなくて……」
ぽつりぽつりと、言葉が落ちてくる。

「昔、病院行ったときだって、医者に“変われますよ”なんて、……適当なこと言われてさ……何にも変わらないのに……」

膝に顔を落としそうになりながら、香澄は続けた。

「夜だって、私が落ち着かないから……悠真が眠れないのに……。私、……悠真のせいにして……。最低よ、私なんて、もう……いない方が、いいのよ……」

花音は言葉を挟まなかった。
ただ、ゆっくりと近づき、香澄の傍に膝をつく。

彼女の表情は冷えた灰のようだった。
感情が凍りつき、それでもまだ、自分を責める火種だけが小さく残っている。

花音は静かに、自分の手を伸ばし、香澄の手に触れた。

「……いなくなっていい人なんて、いません」

雨音が窓を叩く中、その一言だけが室内に響いた。

悠真くんは少し離れた場所で、小さく身を縮めていた。

この瞬間の温度は低い。
でも、確かに何かが積もっている――そう花音は直感していた。

言葉ではまだ届かない。
香澄の心の中には、深くて暗い井戸がある。
そしてその縁に、彼女は今、立っている。

(間に合う……?)

そんな予感が、花音の胸の奥に、鈍く、刺さるように残った。
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