眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
壁に背中を預けた瞬間、花音は全身の力が抜けていくのを感じた。
肺が悲鳴をあげている。
心臓がばくばくと暴れて、うまく息が吸えない。
けれど、そんなことより――

「……悠真くん……」

ぽつりと、名前を呼んだ。
誰に聞かせるでもなく、ただ願うように。

いない。どこにもいない。
あの部屋にも、寝室にも、押し入れにも。
彼の小さな靴は、玄関にさえなかった。

(どこ……どこに行ったの……どうして……)

頭の中がぐちゃぐちゃだった。
心配と後悔と、恐怖と――怒りさえ混ざっていた。
自分に対する怒り。
もっと早く来ていたら。
もっと強引に踏み込んでいたら。

(……動かなきゃ……悠真くんを……)

震える手でスマホを掴み、画面に朝岡の名前をタップする。
すぐに通話が繋がった。

「朝岡さん……佐原です……」
舌がもつれる。声がうまく出ない。
でも、必死に伝えようとした。

「香澄さん、運ばれて……でも、悠真くんが、家にいなくて……!」

息が詰まりそうだった。
胸が、喉が、苦しい。
言葉が、焦りに飲まれて消えていく。

「あの、それで……あの……あの……」

目の前がぐらぐらと揺れる。
地面が歪んで見える。
朝岡の声が聞こえる。
「落ち着いて。悠真くんが、どうしたの?」

「……いないので……探して……ください……」

それだけを言い切ると、もう保てなかった。
スマホが手から落ち、アスファルトに鈍く音を立てて転がる。

(ダメ……まだ……終われない……)

でも、体が動かない。
腕に力が入らない。
膝が笑っている。

団地の外階段を駆け上がってくる足音がした。誰かが来る。
でも、もうその足音すら、遠くて遠くて――。

(悠真くん、無事でいて……お願いだから……)

目の前の世界が、まるでフェードアウトするように、音も、光も、形も、すべてが少しずつ遠ざかっていく。
最後まで残っていたのは、悔しさと、祈りだけだった。
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