眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
団地の階段を駆け上がった瞬間、視界の端にそれは見えた。

「……花音!」

外階段の踊り場、壁にもたれかかるようにして、花音が座り込んでいた。

素足のまま、顔色は青白く、まるで魂が抜けたように項垂れている。

(ダメだ、完全に意識が……!)

早瀬は一気に駆け寄り、花音の目の前に膝をつく。
肩に手をかけ、揺さぶるように声をかけた。

「花音! おい、花音!!」

返事はない。かすかに呼吸はある。
けれど、その胸の上下がやけに小さく感じられた。

「岡田! 救急車、もう一台だ! 花音が……意識がない!」

背後から階段を駆け上がってきた岡田に叫ぶと、すぐに無線を取る気配がする。

早瀬は再び花音の方を向き、彼女の体を抱き寄せた。冷たい。怖いくらいに冷たい。

「花音、頼む、しっかりしてくれ……! お願いだ、目を開けてくれよ……!」

その声に応えるように、かすかにまぶたが揺れた。

「……たく……み……?」

わずかに開いたその瞳が、ゆっくりと焦点を合わせる。

早瀬の顔を確認すると、彼女はか細い声で呟いた。

「……香澄さん、大丈夫そう……脈も、呼吸も……あって……」

言葉が途切れる。力なく首が傾く。

「でも……悠真くんが……いないの……」

それを聞いた瞬間、早瀬は眉を歪め、彼女の顔を両手でそっと支えた。

「もういい……! 他のことは考えるな、今は……お前自身のことだけだ」

彼の声が、震えていた。
唇を噛み、声を押し殺すように続ける。

「……お前が無事じゃなきゃ、何も始まらない。悠真のことも、香澄さんのことも、あとでいい。今は……お願いだから、生きててくれ……!」

目の奥に、涙が滲んだ。滲んだまま、堪えきれずに頬をつたう。

花音は、その涙に気づいたのか、うっすらと目を見開き、弱々しく息を吐いた。

「……ごめ……んなさい……」

小さく、小さく、その声が聞こえた。

「謝るな……もう、謝るなよ……」

早瀬は彼女を強く抱きしめ、ただその温もりを確かめるように祈った。

その背後から、再び足音。
救急隊が新たに到着し、彼らの声が響く。

「意識あり。搬送優先でいきます!」

早瀬は、花音の手をそっと託しながらも、最後までその手を離したくない衝動を必死に抑えていた。
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