眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
匠は静かに花音の部屋を後にした。
扉の向こうからは、温かい空気と微かな柔らかさがまだ残っているようで、名残惜しさが胸に残る。

しかし、今やるべきことがあった。
花音が過呼吸を起こした原因——あのノート。
彼女の心を縛る重さを、少しでも遠ざけてやりたかった。

まずは署に立ち寄り、生活安全課の端末を借りて業務用の児相電話帳を開く。

朝岡の業務端末の番号を確認し、自身のスマホから通話を発信した。
左手には、丁寧に封をした紙袋。

その中には、花音が赤尾家について記録したノート、そして関連資料のコピーが入っている。

数コールののち、端末の向こうから聞き慣れた朝岡の声が応答した。

「もしもし、杉並児相、朝岡です」

匠は落ち着いた声で、簡潔に、だが誠実に事情を説明した。

「お世話になっております。杉並署の早瀬です。突然のご連絡、失礼いたします。実は佐原さんが……つい先ほど、赤尾家に関する資料を目にして過呼吸を起こしまして。幸い、すぐに落ち着きましたが、今はまだ資料が視界にあるだけで精神的な負荷が強くなる状態のようです」

朝岡の受話器越しの呼吸が、わずかに詰まる。

「そこで、一時的に、彼女の仕事関係の資料をこちらでお預かりいただけないかと思いまして……。責任を持って封をし、児相宛にまとめております」

すぐに朝岡の落ち着いた返事が返ってきた。

「それは……ありがとうございます。ちょうど今日の14時ごろ、職員が別件でそちらに伺う予定です。その職員に受け取らせますね」

「助かります」と答えかけた匠だったが、次に返ってきた問いには、わずかに間が生まれた。

「ただ……失礼ですが、なぜ早瀬さんがここまで? とても丁寧に対応していただいていますが……」

匠はその問いに、一瞬だけ躊躇した。
だが、もう隠すことでもなかった。
隠したいとも思わなかった。

「……実は、佐原さんとお付き合いしています。今回の件を受けて、今は一緒に過ごしておりまして、しばらく僕がそばで様子を見守ります。どうかご安心ください」

受話器の向こうから、小さな驚きの声が漏れた。

「あら……そうだったんですね。まったく気づきませんでした。でも、それなら安心です。様子はどうですか?」

「今は落ち着いています。ただ……彼女自身が、“意外と平気かも”なんて言ってしまうタイプでして。自分の状態に気づかず、無理をしてしまうこともあると思うので。少し注意深く、見守ろうと思っています」

朝岡は静かに、そして感情を込めて返した。

「本来は、私が支えるべきなのに……。でも、早瀬さんのような方がそばにいてくれるなら、それほど心強いことはありません。どうか、よろしくお願いしますね」

「お任せください」と、匠は一礼するように言葉を返した。
通話を切ると、足早に署の受付へと向かい、預かっていた封筒を担当者に託す。

その足で、自宅へと戻る。
玄関の扉を開けると、しんとした室内にわずかな生活の匂いが広がっていた。

ハンガーにかけていたスーツを手に取り、仕事道具や洗面具も忘れずバッグに詰めると、ひとつ深呼吸して戸締まりを確認する。

ふたたびドアを閉めて外へ出た時、次に目指すのは——実家だった。
両親が待っている。
そして、きっと少しだけ、息子の顔を見たがっているだろう。

花音を守るために、自分にできる準備を、ひとつずつ。
匠は静かに歩き出した。
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