眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
実家の玄関を開けると、すぐに漂ってきたのは甘いバニラの香り。

匠が「ただいま」と声をかけるよりも早く、キッチンから母の声が飛んできた。

「匠! 遅かったじゃない。もうシフォン、焼けてるわよ」

エプロン姿の母は、オーブンの前に立ちつつも、どこか落ち着かない様子だった。

手は動かしながらも、目線は匠の表情をさぐるように注がれている。

「……ニュースで見たわよ、あの件。あの子、花音ちゃん、巻き込まれてたのよね?」

匠はうなずくと、包み隠さず話した。

「うん。でも今は落ち着いてる。自宅で休んでて、俺が一緒にいるから大丈夫」

母は静かに息をついた。

そのまま、カウンターに並んだケーキを丁寧に箱詰めしながら、ぽつりと漏らす。

「現場……本当に過酷だったでしょうね。想像するだけで胸が痛いわ。あなたも、花音ちゃんも、無事でいてくれればそれでいいのよ」

匠が何か言おうとしたとき、背後から「うんうん」と低く頷く声が聞こえた。

「命があるってのは、それだけで大事なことだ」

そう言って現れたのは、収穫したばかりの野菜を両手に抱えた父だった。

畑仕事帰りで、まだ腕には土のにおいが少し残っている。

トマト、きゅうり、ズッキーニ、そして朝採れのナス——彩り豊かな夏野菜たちが、誇らしげに新聞紙の上に並べられていく。

「これ、持って行け。健康的なもん食わせてやれ」

虫チェックを一通り済ませた父は、まるで実戦に送り出すような表情で、新聞紙の端をきっちりと折った。

母はその横で、ケーキの箱を紙袋にそっと収めながら微笑む。

「これ、花音ちゃんと一緒に食べて。甘いもの、ちゃんと食べると気持ちも和らぐから」

「それから……もし匠が出勤してるときに、花音ちゃんが不安だったら、うちに来なさいって伝えて。猫でも撫でて、お茶飲んで、それでちょっと元気出るなら、いつでも歓迎よ」

母のその言葉に、父もまた「うんうん」と静かに頷いた。
ふたりの目には、家族のように誰かを思いやる優しさが宿っている。

匠は思わず小さく笑みをこぼす。

「ありがとう、ほんと助かる。花音にも伝えとく」

紙袋と野菜の包みを抱えて玄関へ向かうと、後ろから母の声が追いかけてきた。

「気をつけてね。あんたも、ちゃんと休むのよ」

振り返り、匠はひとつ頷くと、そのまま玄関の扉を開けて出ていった。

夕方の風が、少しだけ涼しくなっていた。
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