眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
パトカーの後部座席。
冷房が効いた空間に身を預けてしばらくしても、花音はまだ目を閉じたままだった。

薄く汗をにじませ、頬は赤みを帯びている。
けれど、先ほどより呼吸は落ち着いてきていた。

車外から戻った新田が、窓越しに早瀬に言った。
「意識、はっきりしねぇなら救急車、すぐ呼べよ。今、緊張切れて体調崩してるやつ、他にも出てる」

「わかりました」
早瀬は静かにうなずく。

隊員の数名が、駐車場の片隅で水を飲んだり、制服の襟元を引いて風を入れたりしていた。
誰もが限界に近い。
そんな中、早瀬は無言で自販機へと歩いて行き、ポカリスエットのボタンを押した。

戻ると、まだぐったりした様子の花音に、冷たいペットボトルをそっと渡す。
「飲んでください」

花音は目を開け、かすかにうなずくと、ゆっくりとペットボトルを受け取り、喉を上下させながら一口、また一口と確かに飲み込んでいた。

(大丈夫だ……救急搬送までは必要なさそうだ)

早瀬はそう判断し、穏やかに声をかけた。
「母親への連絡ですが、佐原さんの今の状態では難しいと思います。朝岡さんには、私から連絡しておきます。それで、いいですか?」

すると花音は、はっとしたように目を見開いて言った。
「……でも、私、当直だから。戻らないと……」

「児相、今ほかに誰かいますか?」

「……いえ、私だけです」

その答えに、早瀬は静かに諭すような口調で続けた。
「あなたしかいないのに、そんな状態で一人きりになって、もし倒れたらどうするんですか?」

花音は口を開きかけて、何も言えずに閉じた。
「それは……」

少しの沈黙のあと、ぽつりと漏らした。
「もう……わかんないです。考えられない……」

言い終えると同時に、彼女はまた目を閉じた。
うるんだ瞳を隠すように、顔を少しそむける。

早瀬は、それ以上言葉を続けなかった。
ただ、胸の奥で小さく、けれど鋭い痛みが刺さるようにあった。

(こんなにボロボロになるまで……)

これ以上は言葉ではどうにもならないと感じ、早瀬は一度パトカーを降り、新田の元へ向かった。

「佐原さん、意識ははっきりしています。水分も取れてます。救急車は、ひとまず必要ないと思います」

新田は一つうなずいて、しかし厳しい表情のまま言った。
「今大丈夫でもな……あとから“やっぱり重症でした”ってのもあるんだよな。児相、一人当直だったろ?」

「はい。ですので、朝岡さんに連絡して、今夜は警察署で母親への連絡を継続してもらうよう、提案してみます」

「それ、いい案だな。お前、判断早ぇな」
新田は少し口角を上げると、周囲を見回しながら続けた。
「こっちもそろそろ撤収できる。最後にみんなの健康状態確認して、順次返す。次は児相職員の見守りが必要になるな」

そして、ふと早瀬の顔を見て問いかけた。
「お前は、大丈夫か?」

早瀬は、短く、しかし力強く答えた。
「はい、大丈夫です」

その目には、現場を支える覚悟が宿っていた。
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