諦めの悪い外交官パパは逃げ出しママへの愛が強すぎる
 喉に張り付いた言葉をなんとか嚥下しようとしていた、そんな時だった。
 その場に、どこからか上品な香りがふんわりと漂った。その合間に、塩漬けされた桜の葉の匂いが混ざり合う。
(この香りは……桜?)
 懐かしさを覚える匂いにつられてその方向を見ると、咲良よりも目線がずっと高い、品のいいスーツを着た長身の若い男性が、女性にやさしく微笑んでいた。
(彼は――)
 頭に血が上りつつあった咲良は情報を整理しきれない。ただ、彼に目を奪われては言葉を失っていた。
 ナチュラルに整えられた清潔感のある黒髪に、日本人にしては目鼻立ちがはっきりとしている。そんな彼には、物腰穏やかな雰囲気と凛とした輝きを放つ、高貴なる美しさがあった。
 誰かはわからないが、錚々たる客が集うこの会場内でも、彼はかなり高い地位や名誉を持つ人なのではないだろうか、ということだけは肌で感じとった。
「何かお困りごとでもございましたか?」
 助け船がきた、といわんばかりに家元夫人がすぐに彼に事情を打ち明けた。
「それが、この方が預けていた大事な本があるとおっしゃってるんですが、どうやらお互いに何か勘違いがあるようで……」
 なるほど、と彼は鷹揚に応じると、咲良の方を一瞥しつつ、件の女性に声をかけた。
「失礼ですが、ご婦人、こちらの詩集……覚えはございませんか? あなたがお探しのものではないでしょうか?」
 笑顔の圧力、というものを咲良は今日この日初めて経験したかもしれない。
 女性はギクリとした表情を浮かべ、しどろもどろに受け答えをしはじめた。
「え、ああ、そ、そうよ、これよ、これ」
 そう言いながら彼女の頬が桃色に染まって耳は林檎のように赤い。見目の整っている男性に照れているのか、それとも自分の醜態が第三者に知られて恥ずかしいのかはわからない。
「よかった。実を言いますと、私もこの詩集が好きでして。さぞ探されているのではないかと」
「ま、まぁ、あなたもそうなの!」
 興奮したように女性は溌剌とした声を上げる。
「ええ。それから、こちらの桜餅はいかがでしょうか? お茶と一緒に召しあがってはどうでしょう」
 彼の雰囲気があっという間にその場の空気を変えた。咲良は感服してしまっていた。
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