『夢列車の旅人』 ~過去へ、未来へ、時空を超えて~ 【新編集版】
(10)
迎えてくれる人のいない部屋は寒々しく感じた。
今まではそんなことはなかった。
気楽な独り暮らしに不満はなかったし、寂しいと思うこともなかった。
でも、今夜は違った。
完全に何かが足りなかった。
半日ほど一緒に過ごしただけなのに、その存在は無くてはならないものになっていた。
会いたい……、
呟きが何も映っていない液晶テレビのパネルに吸い込まれた。そこに彼女の姿を探したが、パネルは冷ややかにわたしを見つめているだけだった。
何をする気も起らなかった。
歯磨きをして、顔を洗って、布団の中に入った。
しかし、眠れなかった。
眠れるはずがなかった。
諦めて布団から出て、台所でお湯を沸かして、それで焼酎を割った。
フーフーしながらすするように飲むと、温かさが口から喉へ、そして胃へと流れていった。
1杯飲み終わると、血の流れが良くなったように感じた。
でも、心はまだ寒かった。
もう1杯飲んだ。
すると、疲れも影響したのか、瞼が重くなって、大きなあくびが出た。
すかさず布団の中に入って目を瞑った。
眠りの女神に引っ張られるように夢の中に入っていった。
*
高松さんのアパート前の道路に立っていた。
人も自転車も車の姿もなかった。
月明かりが路面を照らしているだけだった。
気配を窺いながらアパートに近づいて各部屋の様子を確認したが、明かりが漏れている部屋は一つもなかった。
起きている人は誰もいないようだった。
音を立てないようにして郵便受けに近づいた。
スマホの懐中電灯アイコンをタップしてライトをつけると、ダイヤル錠の数字がはっきりと確認できた。
スマホを左手に持ち替え、右手でツマミを持った。
右に回して1で止めた。
そして左に回して1で止め、ツマミを引いた。
しかし開かなかったので、右に回して1で止め、左に回して2で止めた。
またもや開かなかったので、作業を続けた。
右に1、左に3。
右に1、左に4。
わたしはすべての組み合わせを確認しようとしていた。
すべてを試しても100回で終わるので、それにかかる時間は30分もかからないはずだった。
残念ながら、1の組み合わせは不発に終わった。
2の組み合わせも同じだった。
すぐに3の組み合わせを始めた。
右に回して3、左に回して1。
しかし、7まで試しても開かなかった。
ひと息ついて、右手を振った。
同じ動作を続けて疲れが溜まっていた。
何度か握ったり開いたりして指のこわばりを取り除いて8を試そうとしたが、それはパスした。
3と8の組み合わせで開かないのは経験済みだからだ。
その後も右に3、左に9、右に3、左に0、と作業を続けたが、開く気配はまったくなかった。
それでもいつかは正解に行きつくはずなので、期待を込めて4の組み合わせを始めた。
右に4、左に1。
またしても開かなかったが、次を試そうとした時、肌が何かを感じて、手が止まった。
見ると、ブツブツと皮膚が粒状に隆起していた。
それだけでなく、体温が急速に低下しているのか、ぶるぶると震え始めて、それが止まらなくなった。
手にも力が入らなくなり、地面にスマホが落ちた。
そのショックからかライトが消えると、同時に月も雲間に隠れてしまい、暗闇という恐怖がのしかかってきた。
しかも不気味な気配はどんどん大きくなり、こちらに迫っているように感じた。
見たくはなかったが、気配を感じる方向に目をやると、階段を下りてくる光のようなものが見えた。
それも二つ。
何かはわからなかったが、目を細めると、動物のような輪郭が浮かび上がってきた。
なんだ?
凝視すると、動きが止まり、二つの光がこちらを向いた。
しかしそれも束の間、音もなくこちらに近づいてきて、その姿がどんどん大きくなった。
威圧されるほどの大きさだった。
わたしは視線を逸らせてじっとしたまま、それが通り過ぎるのを待った。
しかし、足元まで来た時、動かなくなった。
突然、「シャー」という音が口から漏れた。
明らかにこちらを威嚇していた。
その目は見開いて吊り上がり、耳は後ろに反り、犬歯がむき出しになっていた。
とっさに構えた。
まだ手は自由にならなかったが、なんとか両方の拳を握って攻撃に備えた。
しかし、そんなことで怯む相手ではなかった。
「ウウウー」という喉から絞り出すような低い声が漏れたと思ったら、いきなり跳びかかってきて、牙が顔を捕らえようとした。
わたしは左腕で顔を防御して右の拳でそいつにパンチを繰り出した。
しかし、拳はなんの手応えも得られず、空を切った右手はだらりとしたまま動こうとしなかった。
それを見逃すはずはなく、そいつはくるりと1回転して着地した瞬間、次の攻撃を仕掛けてきた。
既に勝負は決していた。
ジャンプしたそいつの牙が無防備なわたしの喉に突き刺さり、血が噴き出すと共に鋭い痛みが襲ってきた。
為す術もなく見下ろすと、そいつがニヤッと笑った。
牙を深く突き刺したまま、あの老人が笑っていた。
「ウヮ~~~!」
芯からの叫びで悪夢から解放されたが、飛び起きた上半身は小刻みに震えていた。
下着は汗びっしょりになって、パジャマまで濡らしていた。
ハーハーとした息がいつまでも止まらなかった。
*
息が落ち着いてから、恐る恐る右手で喉に手を当てた。
傷はなさそうだった。
痛みもなかった。
血も出ていなかった。
ただザラザラとした恐怖だけが纏わりついていた。
重い体をなんとか起こして、タオルで汗を拭き取った。
新しい下着とパジャマに着替えると少し落ち着いてきたので、冷蔵庫からミネラルウォーターを取って、ゴクンゴクンと飲んだ。
冷たい水が胃まで落ちると心拍数が正常なレベルに戻ってきた。
フ~、
大きな息と共に悪夢を体の外に吐き出した。
その時、突然スマホがテーブルの上で動いた。
ディスプレーに異様な何かが写っていた。
あの老人の不気味な笑い顔だった。
まさか、と頭を振って見直すと、そこに老人の顔はなかった。
彼女からだった。
徳島絵美。