この道の行く末には。
「……ねえ、司。」
「ん?」
「“記憶がない記憶、があること”を、想像したことある?」
「…………記憶がない、記憶?」
美衣が何を伝えようとしているか、分からない。
ただ、真剣に訴えてきていることだけは、分かった。
「それってね、終わりがない恐怖だと思うんだ」
「……どういう意味だよ?」
記憶がない記憶……?恐怖?終わりがない?
眉を寄せる俺に、美衣が柔らかく微笑む。
「あと、誠って真面目じゃん?考え方とか、人としての根っこ部分。だから、本当のこと知ったら、きっと前みたいな関係に戻ろうとした気がするんだよね。思い出せなくても。」
「戻ればいーだろ?」
「うーん……でも、それは誠が記憶にない過去の出来事だよ。そんなの、虚しい。」
明るい空気に、
「会いにきた私が言えることじゃないけど」
肩をすくめイタズラに笑う美衣に、泣きたくなった。
「……そんな風に、簡単には割り切れないだろ。それとさっきの、終わりがない恐怖ってなに。どういう意味?」
「…………これはただ勝手に思ってるだけなんだけど、」
食い下がらない俺に困ったのか、美衣の眉が下がる。
頼むから、誤魔化すな。
俺、知りたいんだよ、美衣。
そんな俺の想いを感じ取ったのか、覚悟を決めたよう、美衣が息を吸い込んだ。
「自分にとって“全く知らない記憶”が存在してるのって、怖いよ。絶対。いい記憶だったとしても、実際自分は覚えてないことでしょ?」
「怖い?自分の記憶が?」
「私とつきあってる、ってあのとき言ってたら、誠は信じてくれたと思う。写真とかもいろいろあったしさ。」
「だったら、」
「その後、もし、誠が永遠に私のこと思い出せなかったら?」
「あ、と……?」
どくん、と。
自分の心臓の音が、何よりも大きく響いた気がした。
「誠は、私を全く覚えてないんだよ?ほかにも記憶を忘れてるのかもって、自分で疑問を持っちゃったら?」
「………………」
「私のこと以外にも|《自分の知らない事》が存在するかも知れない|《周りが隠してる》だけなのかも知れない──それって、証明の仕様がない。出来ないよね」
「……………」
「そんなのもし思い始めちゃったら、誰も信じられなくなるよ。誠の周りは、優しくて暖かい人ばっかりがいるのに……そんなこと思いながら、生きてってほしくない。」
「……………」
「だから、本当のことを話さなかった。一か八かの博打して、誠を苦しめるぐらいなら、無かったことにしたほうがいいと思ったの。それは、これからも変えない。一生、誠に話すつもりもない。私の、勝手すぎる自己満足。」
どんな言葉も、出なかった。
俺が口を挟める権利など、更々なかった。
なあ、美衣。
それ、いつから思ってた?
「…………美衣、馬鹿だろ。」
「ひどっ。何てこと言うの。私、年下なんだけど!かわいい後輩に向かってさぁ、」
たのしそうにおどける美衣。
それに応える余裕すらなかった。
……あいつ、お前のこと忘れてんだぞ。
何も知らないまま、ただそれだけだよ。
なんでだよ。なあ。美衣。
「……言ってくれれば、いい、だろ?」
「………………」
「なんで、1人で、」
「…………うん。」
「………………なんで、」
「…………司は、司が1番大切に思える人を大切にすればいい。」
「…………は?」
「私だって、そうしてきた。」
「………………」
「……というより、そうしてきただけかもしれないけど」
絞り出したような弱々しい声で批判する情けない俺から、美衣は決して、視線を逸らさない。
ブレることも濁ることもない、大きな瞳。
「…………どういう、意味?」
「どういう意味も何も……そうやって、誠と司が生きてくれたら嬉しいから。本当に、嬉しいんだ。綺麗事かな?」
「……そんな訳ないだろ。美衣、自分のこと低く見すぎ」
綺麗な心を受けたまま、改めて正面から向きあった。
全く、気付かなかった。
いつから、だったのだろう。
「………いつ?ばれたのは」
「忘れた。」
「嘘つけ。どうせ中学んときとかに気付いてたんだろ」
「────いや?」
「間、空いてるし。やっぱりな。」
「……………。」
悔しそうに下唇を噛み締め、横に視線を逸らす美衣。
すごいな。
すごいよ。完敗だ。
「なんで分かった?」
「司が昔から、彼女途切れさせたことないの知ってる。」
「俺、意外と需要あるもんな」
「自分で言う?」
真顔でふざければ、本気で蔑んだ視線を送られた。
まるでコントのようなやりとりが可笑しく「……ははっ!」と、声に出し笑う。
「さっき、言ってくれたじゃん司。それと同じ。私だって、ずっと近くで見てたもん。昔。誰を1番に想ってるかぐらい、分かるよ。」
今この瞬間にそぐわずそうした俺に、美衣から呆れた溜息を吐き出された。困ったように、笑いながら。
そんな美衣に、俺は絶対、一生、適わない。
「本当のことは必ず話すべきだ、とか思わないんだよね。誠の本当のことは、私と司が知ってるし。それでいいよ、きっと。勝手に決めちゃうけど」
「……そうだな。」
今度は、俺の眉が下がる。自然と苦笑がこぼれた。
らしい、な。
俺が知っている、木ノ下美衣“らしい”。
「うん」
「うん」
「……………」
「……………」
「……………。」
「……………。」
「…………ねぇ、司。」
完全に俯いた俺の耳に、美衣の優しい声が届く。
懐かしい。
懐かしくて、悲しい。
悲しくて、暖かい。
美衣の一途な思いが、暖かい。
暖かすぎて、自分が情けない。
美衣、ごめん。ごめんな。
「私、誠と司が、大好きだよ。」
昔から、今日までずっと変わらない、優しく暖かい美衣。
「…………俺も。美衣と誠が、大好きだよ。」
顔を上げ視線を交わし、お互いが、笑った。