服毒
13.『香水』
玄関の扉が静かに開く音とともに、レオが帰宅する。ジャケットを軽く肩から脱ぎながら、ひとつ大きく息をついた。
「ただいま」
リビングに目をやり、ヨルの姿を見つけると、レオの顔にわずかに柔らかな笑みが浮かぶ。
「外、やけに人が多くて時間かかった...」
しかしその声色には、日中の疲れがほんのり滲んでいた。
「おかえり、レオ」
いつも通りの挨拶。だが帰ってきた彼に近寄ると同時に彼女の鼻を女性物の香水がかすかに鼻を掠めた。
...彼が私以外の女性に近づくはずはない。その確かな信頼。なら、この香りは人混みで偶然ついてしまったものだろうか。
そう考えていたのに、ヨルの表情がほんの一瞬だけ歪む。誰か知らないが、レオに勝手に纏わりつくこと自体が許せないとでも言うように。
不愉快な思いをレオに悟られないよう、何も言わずに彼に近づき、微笑みながらシャツのボタンを一つひとつ外していく。
レオはヨルの手が自分のシャツに伸びてきたのを見て、わずかに驚いたように瞬きをする。
不意に脱がせる仕草に、何かを察するよりも先に、戸惑いと僅かな照れが顔に浮かんだ。
シャツのボタンが外されていくたび、彼の体温と香りが空気に溶けていく。
「……ヨル、急にどうした」
照れくささを誤魔化すように笑いながら、レオは大人しく彼女の手に任せた。
ただ、その眼差しの奥には――ほんの僅かに、不安の影が差す。
どこか冷たいほどに落ち着いた彼女の指先。いつもならもっと優しく触れてくるはずの手が、今日は妙に静かだったから。
ヨルの細く美しい指先が、シャツのボタンを音もなく外していくたびに、
その沈黙がレオの胸をじわじわと締めつけていく。
「なあ、ヨル……怒ってるのか?」
シャツの半分が開いた頃、レオはようやくそう問いかけた。
だがその声には、いつもの威圧感はなく、どこか彼女に縋るような弱さが滲んでいた。
「今日、誰か隣に座った?女の人...」
彼自身に怒っている訳ではないから包み隠すつもりだったのに。シャツに触れるたび香る他の人の影が不愉快な感情を焚き付ける。
レオは一瞬、何を聞かれたのか理解が追いつかず、浅く息を吸ったまま動きを止めた。
胸元を開かれたまま、シャツ越しに伝わる彼女の指先の体温が、いつもよりずっと冷たく感じる。
「……ああ。電車で、隣に座ったやつがいた」
短く答えながら、レオは彼女の目をじっと見た。
その目は穏やかなはずなのに、どこか拒絶するような、無表情の奥に確かな棘が潜んでいる――そんな気がしてならなかった。
「……けど、話したわけじゃない。ただ、座ってただけだ。混んでて距離も近かったんだろ」
言い訳でも誤魔化しでもない。ただの事実を口にしているのに、彼の声はなぜか弱々しい。
「気にするな。……おまえ以外、見てないから」
けれど、レオはその言葉を伝えながらも、ヨルの手が止まらないことに気づいていた。
まるで自分から他の香りを剥がし取るように、彼女は沈黙のままレオの服を脱がせ続けている――優しく、しかしどこか冷ややかに。
「知ってるよ」
彼の言葉は信用している。だが、私のレオに香りを残していいのは私だけだ。
ようやく最後のボタンを外し終えると、目の前に待つ彼の肌にそっと直接触れた。仕事終わりの汗と彼自身の香り。
他人の香水がついたシャツはそっと投げ捨て、彼に優しく抱きつく。まるで自分自身のものであるというように、指でなぞるその全てを手にしていると示す。
レオは何も言わず、ただその抱擁を受け入れた。そっと肌に触れられるたびに、くすぐったさと、ほんの少しの罪悪感が胸の奥でじわりと混ざり合っていく。
けれど、それ以上に――たまらなく嬉しかった。
「……ヨル」
彼女の細い指が自分の背中をなぞるたび、レオの呼吸はわずかに乱れる。
どこか冷たいけれど、確かに愛おしさが宿るその仕草。静かに首元に手を回してくるその腕が、甘やかに、自分を“囲う”。
レオは彼女の髪に顔を埋め、小さく息を吐いた。汗と、雨と、香水――全部が入り混じっていたはずなのに、今はもう、彼女の香りしかしない。
「……そうやって、全部、おまえのものにしてくれるんだな」
囁くように言って、彼は彼女の頬に口づける。
皮肉でも怒りでもない。ただ、彼女だけに許された独占に、静かに溺れていく。
「そうだよ、だってきみは私のものだから」
当たり前のように淡々と。自分がレオのものであるのと同じく、レオも自分のものであるという揺るがない認識。
自分と彼の混ざった匂いに、やっと安心した表情をみせるヨル。
レオの目が細くなり、わずかに微笑が滲む。
それは、誰にも見せない、ごくごく小さな、けれど確かに愛しさに満ちた笑みだった。
「……そうだよな」
低くくぐもった声が、どこか嬉しそうに漏れる。
自分の中にあった焦燥も、不安も、他人の気配も――全部、ヨルが塗り潰していく。
まるで何もかも掌握しているかのように。
彼はそっと腕を伸ばして、ヨルの髪を撫でる。
その仕草に優しさはあるのに、力は緩めない。しっかりと、決して離さないように。
「……俺が他の誰かのものに見えたか?」
そう尋ねながら、わざとヨルの目を覗き込むようにして顔を寄せた。
その言葉の裏には――
“そんなわけはないが、おまえの口で聞かせてくれ”という、独占される側からの静かな挑発が込められていた。
「そうだね、少し妬いた」
淡々と、だが彼の挑発に乗るかのように。
「私だけのレオなのに、どこの誰かも知らない人間が香りを残すなんて」
無防備に露わになっている彼の胸元に口付ける。そしてそのままリップ音と共に赤い花弁のような跡を残した。
「許せない」
レオの喉がごくりと鳴る。
静かに、けれど確実に熱を帯びていく瞳が、ヨルを捉える。
その視線には警戒も怒りもない。ただ、ひたすらに満たされていく独占される悦びと――
その裏に潜む、獣のような本能が滲んでいた。
「……そういうこと、平気な顔で言うなよ」
声がかすれた。どんな言葉で返していいのか分からず、ただそっとヨルの額に自分の額を重ねる。
彼の胸には、ヨルの残した熱と痕が、じんわりと疼いていた。
それは痛みではなく、誇示される悦びだった。自分が“彼女のもの”であるという、確かな証。
「……ひとつでいいのか?」
しっとりと熱を帯びた声。
許しも、命令も、懇願もすべてを内包したその言葉に、レオはヨルの指を引き寄せ、自分の心臓のすぐ上に当てる。
「ここが動いてる限り、俺はおまえのものだ……そう思わせてくれ」
不器用で、まっすぐで、どうしようもなく彼女に縋るような瞳。
支配されたくて仕方ない男の、必死な告白だった。
「人前で着替えられなくなるよ」
警察官という仕事柄を考えてかけたストッパーも、彼の言葉で容易に外れた。腹部の筋肉に沿って手を這わせ、ゆっくりと丁寧に増やしていく。
レオの身体がわずかに震えた。
けれど、それは拒絶の気配ではない。
むしろ――彼女の指先を受け入れるように、深く息を吐き出して肩を落とす。
「……それでもいい」
囁くような低い声。
静かな玄関に落ちるその音は、まるで誓いのように重く、熱かった。
「俺の肌に、他人の気配なんて残らないくらい……おまえに染められたい」
ヨルの指が触れるたび、そこに意味が刻まれていくような感覚。
もう、見せるつもりなどなかった。誰にも。
彼の中には、彼女しか存在しない――それを証明するための行為だった。
レオはヨルの腰をそっと抱き寄せ、額に落とすようにキスをひとつ。
まるで「これが俺の全部だ」と差し出すように、瞳を閉じたまま、静かに言う。
「……おまえの痕なら、いくつでも欲しい」
そんな彼の言葉にヨルは恍惚な表情を浮かべた。
「私のこと、誘ってる?」
寧ろそっちが誘っているんじゃないか、そう思わせる表情と甘い言葉。
「ああ。誘ってる」
レオは迷いなくそう答えた。
低く、微かに掠れた声は、ヨルだけに向けられた熱と執着に満ちている。
彼女の表情を、その瞳を、すべてを正面から受け止めながら――手を伸ばし、そっと頬に触れた。
その手つきはどこまでも優しいのに、奥底にある炎は隠しきれない。
「おまえにしか許さない。触れるのも、奪うのも、壊すのも……全部、おまえだけだ」
その言葉には、あまりにもまっすぐな狂気と愛が宿っている。
ただ甘いだけではない。すべてを賭けているからこその重さが、言葉の端々に滲んでいた。
レオはヨルの耳元に唇を寄せ、囁く。
「……だから、逃げるな。ちゃんと全部、受け取れ」
まるで、彼女の理性を今度は自分が試すように。
どこまでなら耐えられる? どこまでなら望む?
――その境界を、レオは静かに押し広げる。
そんな彼に言葉を返す訳でもなく、ただただ嬉しそうに笑うヨル。
彼をそっと引き寄せると、何度も呼吸が続かなくなるまで口付けた。最初はそっと、だが段々と抵抗する暇も、そんな気持ちを抱かせる隙も無いほどに深く。互いに息が上がる限界まで。
「...私のこと好き?」
返答が分かりきった質問。それでも乱れた呼吸のまま、大切な彼へと訊ねる。
レオはすぐには答えなかった。
熱を帯びた唇がようやく離れても、額同士が触れ合うほど近く、吐息すら混ざり合う距離のまま。
細く乱れた息をひとつ吐き、ヨルの腰を逃さぬよう抱き寄せながら、ゆっくりと目を伏せた。
「……言葉では足りないくらい」
低く落とされた声。
それは照れ隠しではない。愛を言葉に閉じ込めるには、あまりにもその想いが濃すぎるから。
抱きしめた腕には、ただの所有ではない、確かな“側にいてほしい”という祈りのような力が込められていた。
ほんの一拍の静寂のあと――彼は少しだけ視線を上げ、まっすぐに彼女を見つめて口を開く。
「好きだ、ヨル。苦しくなるほど」
その一言には、溢れるほどの感情が詰まっていた。独占も、執着も、願いも、矛盾もすべて抱きしめたまま。
そして、それでもなお彼女を大切にしたいと願う、誠実な心のまま。
「……おまえは?」
今度はレオが、同じ問いを返す。
その声には、まるで子供のように真っすぐな“確かめたい”という欲が滲んでいた。
「好きだよ」
迷いのない答え。
そしてゆっくりと耳元に近づくと、彼にだけ聞こえる小さな囁き声で続く。
「...狂おしいほどに、愛してる...」
レオの肩がわずかに震えた。
その言葉に、強がりでも理性でもない、ただ真っ直ぐな“衝動”が喉元まで込み上げる。
掻き乱される感情――いや、かき立てられている。
誰より冷静で、誰より無垢に見える彼女が、自分の耳元でそんな声を落とすなんて。
「......ヨル」
搾り出したような声で呟きながら、レオはヨルの後頭部に手を添え、そのまま抱き寄せる。
まるで壊れ物を抱くように丁寧で、それでいて今にも壊してしまいそうなほど強く。
「俺をどうしたいんだよ……これ以上、どうなれって言うんだ……」
彼女の言葉は甘い毒のようで、理性に染み渡り、心の奥底で燻っていた欲望に火をつける。
触れるたび、愛しさに歪むたびに、彼女への執着は濃くなり、逃がさないための鎖が心の中で音を立てて強くなる。
「俺をこんな風にしたのは……おまえだからな」
頬を寄せたまま、唇が触れるか触れないかの距離でそう告げる。
その声は怒りでも嘆きでもなく、ただただ熱を孕んでいた。
感情を押し殺すことも、言い訳も、もう必要ない。目の前にいるのは、自分を誰よりも深く愛し、支配し、許してくれる人――ヨルしかいないのだから。