服毒
17.『標的』(2)
昼下がりの警察署内。
休憩時間に入ると、女性署員たちは給湯室に集まり、コーヒー片手におしゃべりに興じていた。その輪の一角に、ナギサも自然と溶け込んでいる。
「そういえば。レオくん、最近ちょっと冷たくなったよね」
ふと、ナギサがぽつりと漏らす。
あくまで“気づき”のような、誰にも否定されにくい言葉。話題を焚き付けるように、カップのふちを指でなぞる。
「確かに。でも少し柔らかい表情はするようになった気がする。前はもっと、こう……ピリッとしてたというか」
同僚の一人が小さく頷いた。
「わかる。なんかちょっと雰囲気変わったかも」
ナギサは微笑みながら、少しだけ声を落とす。
「やっぱり“あの人”の影響なのかな。彼女さん……って言っていいのかな?最近、署に来るようになった人」
「あぁ、噂の?」
隣にいた女性が目を丸くする。
「え、レオさんって今彼女さんいるの?」
ナギサは、あくまで“確証はないけどね”という風を装い、柔らかく微笑む。
「私も見たよ、すっごい美人だった……なんか、モデルさんみたいで」
「そうそう。私も一瞬しか見てないんだけど、あの雰囲気……凄いよね...」
「綺麗だけど……なんとなく目を逸らしちゃう感じというか……なんか人と違うよね」
同僚がカップを口に運びながら呟くと、ナギサは声のトーンをより柔らかくして、肩をすくめた。
「わかるなぁ……私も最初そう思っちゃった。なんていうのかな……表情があんまり変わらないっていうか、何考えてるか分からない感じで」
「悪い人じゃないと思うんだけど……ちょっと何を考えてるのか読めない感じ、あるかも」
「たしかにね。なんか、近寄りがたいよね……」
誰も“悪口”を言っていない。ただ、印象を語っているだけ。
けれど――それは確実に、“ヨルへの不安”を周囲の中に落とし込んでいく。
場は充分に整った。ナギサは口元を隠して、わざとらしく困ったような声を漏らす。
「でもさ、レオくんって優しいじゃない? だから、ちょっと心配っていうか……」
ナギサは少しだけ視線を落とし、寂しそうな顔をしてみせる。
「……真っ直ぐな人だから、ああいうタイプに引っかかって傷ついてなきゃいいなって。余計なお世話だけどね」
ナギサはふっと笑って、ミルクを入れたカフェオレを口に運ぶ。
優しげな声色に、不穏なものが見え隠れする。
だが、あくまで“心配してる風”。
けれど、その言葉の端々に「ヨル=危うい存在」という刷り込みを忍び込ませる。
会話の空気には、確かに“薄暗い影”が入り込み始めていた。
それは噂という形でじわじわと滲み、
やがて職場という閉じた空間を、少しずつ侵食していく。
すると、少し離れた場所にいた年上の女性がぼそりと呟く。
「でもレオさんが選んだ人なんでしょ。じゃあ、きっとちゃんとした人なんだと思うけどね」
ナギサの表情が一瞬、ピクリと揺れる。
だがすぐに笑顔を取り繕い、カップを持ち直した。
「えぇ……そうですよね。レオくんが幸せなら、それが一番です」
確実な疑念でなくてもいい。その“きっと”という余白こそが、ナギサの狙いだった。
彼女は微笑んだまま、また静かにカップを口に進める。
───数日後の昼
天井の換気口から微かに吹く空調の音。
デスクワークの余熱が残る指先を揉みながら、社員たちはそれぞれのランチに散っていく。
キーボードの音が消え、各自が弁当やコーヒーを手に立ち上がっていった。
いつものように中央のテーブルに、数人が集まり始める。プラスチック製の弁当箱を開く音、紙パックのジュースをストローで刺す音。
会話のトーンも少しだけ高くなる、そんな昼のひととき。
そんななかで、ひときわ緩やかな足取りで近づく影がある。
ネイルの光沢が淡く反射するスマホを胸元で揺らしながら、彼女はにこやかにレオへと歩み寄った。歩きながら、髪を一房耳にかける仕草が妙に意識的で、その視線はレオをじっと捉えたまま。
彼女は今日のために準備をしていた。
白いブラウスの袖をまくり、スマホの画面を慎重に操作する。開いたのは、先日の署内交流イベントで偶然を装って撮ったレオとのツーショット。光の加減も表情も狙い通り――彼の肩越しにやや身を寄せて、自分の笑顔を際立たせた一枚。
ナギサはあえて、その写真を見せるタイミングを“他の人もいる時”に狙っていた。
「レオくん、お疲れさま。……これ、覚えてる? 交流会のとき撮ったやつ、めっちゃいい感じじゃない?」
笑顔でスマホを差し出すと、自然と周囲の視線も彼らに集まる。隣に映るレオは少し不機嫌そうな顔をしているが、それでも視線をそらしていないところが“奇跡の一枚”だとナギサは信じていた。
レオは紙コップのコーヒーを置きながら一瞥した。
「ああ。撮ってたな、そんなの」
反応はそっけない。が、ナギサは気にしない。
「私ね、けっこう気に入ってて。スマホの待ち受けにしちゃおっかな~なんて」
隣の席の同僚たちが「見せて見せて~」と乗ってくる。ナギサは思惑通り、と言わんばかりに言葉を続けた。
「ね? なんか自然体でいいでしょ?」
レオの反応がないがナギサは構わず、スマホを少し傾けて、周囲にも画面を見せるようにした。
「こういうのって、気心知れてないと撮れないからさ」
軽く含みを持たせた言い回し。
そこにいた誰かが笑いながら返す。
「仲良しなんだ~。てか、ナギサさんってレオさんとよく一緒にいるよね」
ナギサは狙い通りの反応に、目尻を下げるように笑った。
「まあ、なんとなくウマが合うというか。……あ、そういえば、あの時の話って皆にしたっけ?」
彼女はスマホを伏せ、いたずらっぽく声のトーンを落とした。
「レオくんってさ……意外とぬいぐるみ好きだったりするんだよね?」
その一言に、同僚の女性が思わず笑いを漏らす。
「え?」「マジで?」
ナギサの笑顔が得意げに大きくなる。
「交流会の最後、ビンゴ大会あったじゃない?あれの景品で色んなものの中から、わざわざクマのぬいぐるみ選んでたんだよ」
数人が顔を見合わせ、くすっと笑う。
「うそ、そんなイメージないのに。意外だね!」
ナギサは笑顔を作ったまま、続けた。
「そうなの!ずっと大事そうに持ってたから、私も思わず『それ持って帰るの?』って聞いたら……真剣な顔で『ああ』って! あれはウケたよ~」
ただ笑いの輪を広げるつもりだった。
ふんわりと、「私とレオくんの間には軽口を言える距離感がある」と印象づけようとした。
“ぬいぐるみ”という柔らかなワードを使いながら。
ナギサの声に笑いが混じる。
周囲もくすくすと笑い、和やかな空気が広がる。
だが、ナギサその笑いをぴたりと止めたのは──レオの何気ない一言だった。
「……あれ、ヨルにやるつもりだったんだよ」
静かに、けれどはっきりと。
ナギサの笑顔が消える。
「え……?」と呟く声は、誰にも届かない。
「喜ぶと思ってな。だから、汚さないようにずっと抱えてたんだ」
淡々と語る口調に、ふざけた調子は一切ない。
それが、なおさら彼女には重く響いた。
周囲の視線が、ナギサから自然と離れていく。
「なんだよ、唐突に。惚気話か〜?」
話題の中心はナギサからレオの彼女へと移り、冷やかす声がテーブルを覆う。
一途な漢だなと笑って肩を叩く男性の先輩や同僚たちの姿や声も、もう耳に入らない。
ナギサの指先がスマホの縁をぎゅっと握り、表情を引き締めている。
「……あ、そうなんだ……」
精一杯、何でもないふうに言葉を返すが、乾いた声は誰にも拾われない。
彼女が期待していた“レオの可愛さ”は、すべて別の誰かへの思いやりとして語られた。彼自身の言葉が、彼女が必死に示した“親しさの幻想”を、静かに、確実に、壊していった。
───昼休憩明け。
人の気配がまばらな廊下に、ナギサはあえてレオを待ち伏せしていた。
タイミングは見計らってある。
あの"ぬいぐるみ事件”のあと、女性の同僚たちは何かを感じたのか少しずつ距離を取り始めていたけれど、ナギサはまだ諦めていなかった。
(…まだ終わりじゃない。だって、レオくんは優しいもん)
そしてそこへ、予定通りレオの姿。
ナギサは一歩前に出て、少し気だるげな声色を乗せた。
「レオくん、今一人?」
「……ああ。何か用か」
淡白な返答。でも、その優しさにすがるように笑顔を浮かべて続ける。
「ねえ、今日ちょっと付き合ってくれない?新しいカフェ見つけたんだ。休憩がてらさ、どうかな~って」
肩をすくめて、なるべく軽く、親しげに。
過去のやりとりなんてなかったかのように振る舞う。それが彼の“優しさ”に甘えるコツ。
しかし──
「悪い。他の予定がある」
それだけ。視線は一瞬も逸れないまま。
「……そっか、じゃあ……」
一度引いたナギサが、すぐに食い下がる。
「じゃあせめて、帰りだけでも──ちょっとだけ寄り道とか……」
レオは今度こそ真正面を向いた。目は冷ややかで、静かに遠慮がなかった。
「それも無理だ」
静かに、はっきりと拒絶する声音だった。
ナギサの目が揺れる。
意識して軽く笑おうとしたが、口元の筋肉がひくりと引きつった。
「……今日もヨルさんが迎えに来るの?」
掠れる声で問うその瞬間、レオの目がすっと細められた。
「ああ」
たったそれだけ。
「ふぅん……そっか……」
笑っているように見せた顔は、どこか空虚だった。
それ以上言えば、何かが壊れそうだった。だから、ナギサはそのまま小さく手を振って廊下の先へ歩き出す。
レオの背に追いすがることはしなかった。
──けれど。
歩きながら、ナギサの爪は掌に食い込むほど握られていた。
(……私じゃだめなの?あんな女のどこがいいの?)
(どうして……どうして、全部あの女なの……?)
ナギサは深く息を吐いた。
(あの女が消えればレオくんも目を覚ますはず)