クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい


 光岡令士、35歳。
 博堂会三次団体にあたる光岡組の一人息子。一時は出奔するように家から出て一般企業に勤めていたがここ数年の内に実家に帰り、父親の事業をまとめて『光岡興産』とした男。
 ディナーに誘った龍堂撫子とは馬鹿正直に健全過ぎる時間を過ごし、彼は一人でマンションに帰って来ていた。

 「撫子さ、ん……」

 シャワーを浴びながら切羽詰まった声が浴室に小さく響く。つい小一時間ほど前に彼女のしなやかな曲線のある腰に触れた方の手で彼は歯を食い縛り、想う。

 彼女は許婚である熊井宗一郎にどんな抱かれ方をしているのだろうか。

 酷い目にあっていないだろうか。あの腰を、彼女はどんな風に揺らして――自分だったらどうやって彼女を愛そうか。
 光岡のまるで生活感のない無機質な部屋のバスルーム。その手前の洗面所の足元には脱ぎ捨てたシャツや肌着が落ちている。外した腕時計も無造作に置かれている洗面台の傍らには一つの手の平に納まるサイズのジッパー付きポリ袋が置いてあった。

 中に入っているのは花の形をしたごく小さなタブレット菓子……ではない。どこかの企業の新商品の試供品でもない。

 「現行法ではまだ合法、だから……ね……ッふふ」

 それが一体何なのか。
 知っているのは光岡令士だけ。彼にしかその一見するとラムネ菓子や小粒のキャンディにしか見ない物はあの日の六本木のクラブで撫子に嫌悪を見せた代物に近い物だった。


 光岡と会食を終え、すんなりと帰宅をした撫子。出迎えた寝間着の宗一郎はまるで主人を出迎える犬や猫のようにぐるぐると彼女にまとわりついていた。

 「ご苦労様です」
 「うん、ただいま」

 極道流の挨拶をする宗一郎の熱烈な出迎えに撫子は笑う。彼はどうやら色々と心配をしてくれていたらしい。撫子自身、光岡からあの後も別の場所に飲みに誘われたら断ろうと思っていたのだがそんな誘いは一切無く、ただ単に前回のステータスとの不釣り合いさを詫びてのリベンジ的な会食で終わった。軽いランチと今夜のディナーの支払いを光岡にさせてしまっていたので撫子は何かお返しをしないと、と宗一郎をなだめながら頭の隅にある贈答品のリストを引っ張り出す。

 食べ物の好みはなんとなく分かったような気がするのでタイミングが合えば仕事でよく使っている菓子店のアソートでも渡せばいい。

 「あ、宗君はもうお風呂入った?」
 「はい。後は寝るだけ……だったんですけどそわそわしちゃって寝付けなくて」

 素直に感情を言葉にする宗一郎に撫子の方が照れてしまう。

 「私もお風呂入ったらすぐ寝よっかな。食事だけだったのになんか疲れちゃった」

 キッチンのシンクには彼が使ったであろう皿やカトラリーは無く、すでに洗って元の場所にしまってあるようだった。
 それにしても……だ。撫子はなんとなく、自分の心と体の変化を『疲れ』として感じ取る。光岡との食事は日頃の接待よりうんと楽なはずだったのに何かおかしいな、と思いながら着替えだけ持って洗面所へと向かった。

 いつも通りにお風呂に入って、上がって。スキンケアをした素の顔に軽くナイトパウダーをはたいて。
 リビングに戻れば宗一郎がテレビを点けながらソファーで寛いでいたので撫子もウォーターサーバーからグラスに注いだ水をひと口飲むとやっとここで一息をつくように隣に座ろうとしたのだがふと、宗一郎の足元を見る。少し開いた足の間に座ってみたい、甘えてみたい……なんて。

 「今日はお疲れ様でしたね」

 湯上りでまだ体の温かい撫子は「宗君」と彼の名を呼ぶ。

 「こんなこと言うの変かもだけど……今、すごく宗君に甘えたい」

 恥ずかしそうに俯いて言う姿はベッドを共にしようと言い出した時とはまるで正反対だった。

 「じゃあベッド行きます?あ、別にやましいこととかエッチなこととかじゃなくて。その方が撫子さんも寝られるし」
 「……うん。そうしよっかな」

 お願いします、と言い出しそうな彼女の気配に宗一郎はまた野生のヒグマの勘のごとく何か違和感を感じ取った。

 
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