クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい


 翌日の撫子は早起きでは無かった。昨夜の事があり、疲れていたのだろうと宗一郎は思う。

 「ごめ……おき、られない……」
 「撫子さん、仕事の方が大丈夫だったら今日は」
 「ん……ちょっと横になってるから」

 ずるりと布団から抜けて自分の部屋に行くね、と言う彼女を宗一郎は引き留めない。
 心配な気持ちとして宗一郎もベッドから降りて彼女の背を追う。そんな撫子はベッドからベッドへ、とまたすぐに横になってしまった。朝のコーヒーを欠かさないいつもは凛としている女性の覇気のない姿。ウォーターサーバーの水では無くペットボトルくらいあった方が、と冷蔵庫の扉を開けば理路整然とした中身。早く食べてしまわないといけないものが宗一郎の目にも分かりやすく置いてあった。

 半開きになっている部屋の扉は信頼の証しだと思っても良いだろうか。
 宗一郎はフェイスタオルとミネラルウォーターのボトルを持って「入りますよ」と声を掛けてから彼女の寝室に入る。気が付けば同棲生活を始めてからほぼ、彼女のこのテリトリーには足を踏み入れた事がなかった。ベッドの横の床にはスーツケースが広げて置いてある。それはいつでもぱたんと蓋を閉じてしまえば出て行けるように片付いていた。

 「……撫子さん、水だけですが置いておきますね」
 「ん、ごめ……なんか、眠くて」

 体のだるさだけだから、とベッドの中の撫子は言う。宗一郎はうん、と頷いて「何かあったら遠慮なく連絡してください。このあと事務所に行きますので」と最低限の言付けをして速やかに彼女の部屋から出て行った。

 (撫子さんとのお試しの同棲、いつ終わらせたら良いんだろう……)

 最初は嬉しくて、楽しくて、撫子の眠る姿を眺めているだけで愛しくてたまらなかった。しかしこれが現実なのかもしれない。彼女は自分と生活を合わせる為に相当、無理をしていたのではなかろうか。
 でも、昨日の夜のことは……大人同士の吐息だけの静かな交わりのあとから宗一郎の心には言葉にならない満足感があった。

 (ウチの親父か、撫子さんの親父さんに……じゃない。これは俺と撫子さんが決めることだ)

 リビングに戻った宗一郎はまたキッチンカウンターに回ると冷蔵庫を開けて出来る範囲で自分の朝食を用意する。
 卵はフライパンに落とすだけの目玉焼き。でも撫子が買って用意してくれていたシーズニングを振りかけて。お皿一枚に全部を乗せて盛り付ける彼女を真似して宗一郎は自分一人で朝食を作り上げる。

 これでよし、と一人で座るダイニングテーブルは寂しいが我が儘は言っていられない。これから一緒に暮らすとなれば自分と撫子で全てを決めなくてはならない。朝食すら自分で用意できない男なんて……自分がもっとしっかりしなきゃ、と思う宗一郎はテーブルに置いてあったスマートフォンにメッセージが入ったのを見る。

 直ぐに確認をすれば『今、電話に出られるか』との短い文面。

 それぞれに防音性が高い部屋。撫子の部屋の扉も出てくるときにぴたりと閉じた。もう一つのお手洗いも彼女の部屋の一部としてシャワールームと共に備わっているのでふいに起きてリビングに来る事もないはず、と宗一郎はメッセージを送って来た相手に電話を掛けた。

 「ご苦労様です、国見組長」

 深夜にメッセージを送ったことを詫びながらもこんな朝っぱらから、しかも国見本人から連絡を寄越してきた。宗一郎は顔をしかめさせたが一旦息を整え、コーヒーカップを手にする。電話口の向こうの国見からは「光岡の件だが、本当か」と言われ撫子本人からの証言だと伝え、国見も何かを思案しているようだが多くを電話口では語らなかった。

 「国見組長のご予定を伺っても宜しいでしょうか」

 今日、予定に空きがあるかどうかを問う宗一郎の真剣な声音は接見を請うものだった。国見も急に呼び出したことがあるのだからそれでお相子。手打ちになるだろう、と心の中だけで思っていれば昼なら時間がとれると国見は告げる。場所は前回と同じく国見組が接収した料亭。

 ――これも撫子の為、そして博堂会の為。

 通話を終えた宗一郎は続けて自分が重用している舎弟の松田へ昼に会食の予定が入ったことを伝え、細かな時間の調整を頼んだ。

 「ふー……」

 少し冷めてしまったが朝食を食べ終えた宗一郎はコーヒーも飲み干すとすぐに席から立つ。また軽く床だけでも掃除して、洗濯機もタオルだけでも回しておこうと動き出す。

 片や自分の部屋で朝食もとらずに静かに横になってうとうとしていた撫子は今日の分の仕事が滞ることを幹部社員用のグループチャットで伝え、もう寝てしまおうとした時のこと。朝っぱらからその仕事用のスマートフォンに光岡からメッセージが届くがだるさと眠気に負けて未読のままスリープにしてしまう。
 そして撫子は昨日、宗一郎と仲良く過ごしたふわふわとした不思議な余韻を未だ感じながら瞼を閉じてしまった。

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