クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
最終話 宗一郎と撫子さん
二人向かい合ってとるいつもよりちょっと多めの朝食。
お腹が減っていた撫子は宗一郎が作ってくれた朝食プレートをぺろっと食べてしまった。今日の撫子は休み。出勤も目立った仕事もしないとのことだったが経営者としてそろそろ見直しをした方が良い部分を精査する日にすると予定を告げる。
そして午後は冷蔵庫の中身を全部食べきってしまえるように足りない食材を少し買い出しに出かける、と。
「あの……撫子さん」
「うん?」
「今夜、しませんか」
夜の宣戦布告……もとい、このお試しの同棲生活を始めた時に撫子が告げたようなことを宗一郎から言って来た。ぽかーんと珍しい表情をした撫子だったがすぐに笑顔になる。その笑顔には切なさも混じってはいたが、嬉しそうだった。
朝の時間が過ぎてゆく。
組事務所に向かう宗一郎を玄関先で送り出した撫子はそのまま洗濯機を回しつつ、部屋の掃除を始めた。最上階の部屋とは言え中層マンションなので窓も開けられる。ここが都会のど真ん中だとしてもするりと部屋を抜ける風が心地いい。
(私と宗君が一緒に住むのなら、ってもしものこととして考えていたけれどこんな感じのシンプルな部屋が良いな)
探しちゃおうかな、と一人でにやにやしてしまう撫子。彼女が持つ資格や仕事の性質上、ここがどのような形態になっているかなど契約書を見ずとも想像は容易かった。そもそもここの大家や管理会社の裏を覗けば博堂の者、とすれば名義が誰なのかどうでも良いだろう。賃貸だったなら自分たちがこのまま新規で入居の手続きをしても……。
(でもそれはまた今度の話かな。私の所で良さそうな場所をピックアップしても良いし、どうするかは宗君としっかり話し合わないとね)
こんなにはやる気持ちを感じたのはいつぶりだろうか。
胸が軽いし、弾んでいる。
浮かれちゃってるな、と分かっていても撫子の口元はずっとむずむずと嬉しそうに弧を描いていた。
午前中にこまごまとした仕事の延長線のような事を済ませ、昼からは冷蔵庫の確認をしてから買い物に出る。いつでも出て行けるように食べきれる出来合いの総菜や少量の食材を選んでいた筈が冷蔵庫内には少し在庫があった。宗一郎のおやつ用のお菓子もまだ残っている。
それをつまみにして飲んでも楽しいだろう。二人で映画でも見ながらゆっくり過ごすのも悪くない。
――でも、今夜は。
二人でお腹いっぱい夕飯を食べて、それからは。
時間は瞬く間にすぎて行った。気が付けば宗一郎から帰宅のメッセージが入る頃合いだったがキッチンカウンターに並べ置いていた二台のスマートフォンの仕事用の方にメッセージが入る。誰だろ、とすぐに確認した撫子だったが差出人の名前に軽く息を飲んだ。
「光岡さん……」
あれから彼もどうなったのだろうか。
ちょっと様子が違ったが自分に対して悪いことはしなかった。それに宗一郎と帰るように先ず促してくれたのも光岡だ。
ヤクザならばドラッグの味を多少知っていてもおかしくはない。宗一郎が言うには彼は本当に『まだ合法』のギリギリな商品の買い付けだけしかしておらず、帳簿を洗っても潔白だった。
打ちこむメッセージはあの時、生クリームに振りかけられていたデートドラッグを多少なりとも食べてしまった事でそのあと体に異変は無かったのかを伺う事務的な物。光岡のあの感じからして自分に営業として以外の気があった、と気が付いたがその場で彼は「もっと早くに出会っていれば」とぼやいていたのですっぱり諦めてくれていたようだった。
ここは博堂に属する『龍堂撫子』として。
夕飯の支度をする手を止めた撫子は指先で文字を打つ。
彼からは金輪際近づかない主旨の文面がビジネス構文で送られてきていたが別に光岡は悪いコトをした訳では無い。
個人的に会うのは避けた方が良いだろうがまた集まりがあったら一緒に飲みましょう、と撫子は送る。
既読は暫くしてから付いたが返信の内容には今までの気軽さは無かった。それは熊井宗一郎が背後に控えている撫子に手を出そうとした男のけじめだったのか。ただ、光岡が撫子を想って自身を慰めていたことは光岡本人以外誰も知らない。彼は少し特殊な性癖を持つ男だっただけで実際、本気で手を出したりはしなかった。
光岡なりの遊びだったのだ。高嶺の花の撫子が手に入るなんて万が一があったなら。
それでも諦めはすぐに訪れた。撫子が宗一郎を本気で愛していると分かったのは啖呵を切った彼に対して安心した瞳をしたから。緊張していた雰囲気が解け、去り際のあの宗一郎に縋るような切ない撫子の視線はついぞ、光岡が得られる事はなく……。
そうこうしている内に宗一郎が帰って来る。
「宗君おかえり」
「ただいま」
夕飯のいい匂いがする、と笑う宗一郎は奥さんの出迎えに眉尻を落とす。
靴を脱ぐ前から大きな体を彼女の為に屈ませるのは『ぎゅってして』の意思だったのだが撫子は「外から帰って来たばかりだからダメ」と言い放つ。まあ確かに衛生上、よろしくない。
「……あとでなら、いいよ」
それはつまり、そうである。
ベッドの中でならいくらでも、と匂わせる撫子に一瞬だけしょんぼりしてしまっていた宗一郎はすぐに気を取り直して部屋に上がる。