規制されてしかるべき私達の
7.少し乱暴なチョコ
ローファーに履き替えて、ざわざわとした罪悪感を抱えながら玄関を出る。
そして物陰を伝うように歩き、校舎から離れて設置されているプールへと辿り着いた。
ここに到着した時点で、もうすでに誰とも出会わずに済むだろう。
数年前に水泳の授業が廃止となってからは誰も近づかなくなり、ほとんどの生徒がこの建物がプールなのだということすらも知らないらしいから。
正面入り口はもちろん施錠されているので、私は、その裏側へとまわる。
学校の健康的な空気からは程遠い、淀んだ湿気が濃くなっていく。
ずっと水分を含んだままの土と、陽の光を知らないであろう低木と雑草。
じめじめとして、昼間でも薄暗く、健全な人達を遠ざける陰気な空間。
その壁面の中ほどにある、アルミ扉のドアノブを握る。
鍵の壊れたそのドアノブを引くと、ひんやりとしたカビ臭い空気が外へと漏れ出した。
ここが、去年の秋に見つけた、私の隠れ場所だ。
ちぎれたビート板に、壊れたハードル。ズタボロのボールや、錆びたバット。
廃棄同然の運動器具がひっそりと眠る、雑多な物置と化した元プール用具倉庫。
誰も来ない、誰も来るわけがない、私だけのセーフティーゾーン。
「おやすみ……」
そわそわとする胸を落ち着けるように、そう唱え、埃っぽいマットの上に寝転ぶ。
そして、スマートフォンのアラームを授業が終わる時間にセットし、朽ちた器具達に混ざって、現実から目を瞑った。
倉庫内は静寂だった。
なのに眠ろうとすると、耳は過敏になり、遠くから響く微かな音すらも拾ってしまう。
笛の音。生徒の笑い声。ボールが弾む音。私が逃げた体育の授業の音。
罪悪感で、胸が騒めく。
湿気と閉塞感も相まって、やけに息苦しくなってくる。
やっと誰も来ない安全圏まで逃げ込んだのに、心は、どんどんと安堵から離れていく。
どうして私は、こんなところに隠れて、情けなく怯えているんだろう。
私は小さい頃からずっと、強く在ろうとして、そう振舞ってきたのに。
どうして今、こんな私へと至ってしまっているのだろう。
そんな不安の虫が、止めどなく湧いてくる。
「おやすみ……、おやすみ……」
そんなことを唱えても、眠りに落ちる事なんて、もう出来そうにない。
もう、駄目だ。
私の手が、スカートのポケットからライターと箱を取り出した。
この煩わしい思考を、早くぼやかさないと耐えられない。
煙と共に、胸に巣食う悪感情を吐き出さないと、もうまともに息が吸えない。
それなのに、何故か、何度やっても火が着いてくれなかった。
家から適当に持ってきたブランドライターを、恨めしく握り締める。
このヤスリを回して着火するタイプのライターが、私は酷く下手だった。
紙巻を咥えながら、ひりひりと親指を痛め、煙なんかを必死に求めている。
そんな自分があまりに情けなくて、視界が滲む。
仕方なく、かび臭い湿気を、ゆっくりと吸ってみる。
吐くと、光の中を揺蕩う埃が踊った。
粉っぽいコンクリート張りの室内に、小さな窓から差し込む細い光。
まるで牢屋みたいだった。
「……ぴったり」
無声音で自嘲を吐く。
今の私の心境に、牢屋はぴったりだ。
無論、怠惰に横たわって紫煙なんかを求めている私は、囚われのお姫様などではなく、ふて腐れた囚人だ。
それでも、誰か助けて、と泣いてしまいたい気持ちだった。
小さな子供みたいに、喚きたかった。
もう限界。ここから出して。別の世界に連れてって。
そう思った時、ふいに光の中の埃が、妖精の粉のように煌めき舞った。
それを私は、何かの導きのように感じてしまった。
なにを非現実な、御伽噺みたいなことを。頭ではそうわかっている。
わかっているのに、鬱気に酔った私の手は、空想に縋って、アルミ扉を開いてしまった。
「あ、居たわ。ザドくーん、居たよー」
「まじか、その扉開くのかよ」
外に出たのは間違いだった。
曲がり角から、四人の男がコソコソと笑みを浮かべながら、私を見ている。
その内の三人は見た事があった。
素行の悪さで有名なザドと呼ばれる三年生と、その取り巻きらしい同級生の二人組。
もう一人の興味なさそうに立っている三年生は、よく知らなかった。
思えば、玄関で靴を履き替えている時、自動販売機の方に人の気配を感じてはいた。
だけど、後をつけられるだなんて、思いもしなかった。
「お、いいじゃん」
私の手にライターを見つけたザドが、ポケットからわざとらしく同じ物を取り出した。
「うわ、ザドくんマジで行ったわー、尊敬ー」
「すげぇー、勇敢だわー」
ほとんど嘲りに近い後輩二人からの賛辞に、ザドは一瞬顔を顰めた。
それでも、気を取り直したように歩み寄ってくる。
「授業中に吸うのが、やっぱ一番美味えよな」
「美味い……?」
これを美味いという感覚が、私にはよくわからなかった。
煙は味わっても、煙だ。匂いと刺激でしかない。
考えてみれば、これを良いものだと思って堪能したこともなかった。
逃げるように、縋るように吸入する私からしたら、そもそも味わうような優雅なものではない。
思考を、現実を、自分自身を、文字通り煙に巻いて誤魔化すためのもの。
多くの意味で、まずいものだった。
「ちょっと一緒に吸おうぜ」
「……私、もう吸い終わったので」
切り抜けるための咄嗟の嘘。
吐き慣れない嘘に、心臓が早鐘を打つ。
「そりゃそうだろな。だから出てきたんだろうし」
「ザドくんさ、ちゃんと考えてから話しなって」
嘘は通用したものの、呆れたように笑う後輩達の言葉に、ザドの表情は強張っていく。
「じゃあ、ちょっと一緒に居てくれよ。前から気になっててよ。話してみたかったんだよ」
優しげな声音を装ってはいるものの、視線の先を辿れば、その本意は明白だった。
この男が私に抱いているのは、恋愛感情なんて素敵なものじゃない。
珍しい女を捕まえて皆に見せびらかしたい。
そういう類の俗物極まりない欲望だ。
短絡的で本能的なその単純思考は、嫌悪感を振り切って、一種の羨ましさすら感じるほどだった。
宗道先生から昼に受けたばかりの忠告が、脳裏を過ぎる。
お前は目立つ。それだけ、悪意ある奴の目にも付きやすい。用心しろ。
言われて間も無く、この事態だ。あまりにも無様で、救えない。
鬱積していく自己嫌悪を、堪らず地面に吐き溢す。
「最悪!」
私の口は、思っていたよりもずっと強い声を出してしまった。
はは! だよな、わかるわ! やっぱザドくんじゃ無理だ! あはは!
そんな後輩達の嘲笑に、ザドがムキになってしまったのがわかる。
直感が警鐘を打ち鳴らす。
状況を急速に悪化させてしまった。
背を向けて逃げようとした私の腕をザドが掴み、引き寄せようとしてくる。
「おい、本当に、ただ話すだけだからよ、警戒すんなって」
ザドが乱暴に私の肩へ腕を回してくる。
警戒するな、という言葉とは裏腹に、力の込められたその腕は、間違いなく私を脅していた。
暑苦しい懐へと抑え込まれ、後輩達の方へと無理やりに歩かされる。
まるで私が、すでに自分の物になったかのように、ザドは自慢げな笑みを浮かべていた。
激しい怖気と共に、虫酸が走る。そして、殺意すらも覚えた。
力ずくで良い様に出来る。そう思わせてしまっている、情けない自分自身に対して。
「嫌だ! 触らないでよ!」
精一杯の力で、身体を振り乱す。
「本当に嫌だ! やめてよ! 気持ち悪い!」
必死に抗う私の口は、まるで幼い子供の様な叫びをあげていた。
「あ? なんだよ、気持ち悪いは無えだろ」
その余裕そうに抱き込んでくる腕を、死に物狂いで振り解こうとした時、私の肘がザドの鼻を勢いよく弾いた。
衝撃と共に、一瞬で空気が変わり、凍りついていく。
ザドの顔に貼り付けられていた微かな笑みが、消え失せた。
「お前」
突き飛ばすように壁に打ち付けられて、両手を抑え込まれてしまう。
「調子乗り過ぎだろ」
抑揚の無い低い声に、見据えてくる暗い瞳。
思考が読み取れず、何をしてくるのかわからなくて、恐かった。
いつもは煩わしいくらいの頭の中が、停止したように真っ白になって、動かない。
どうすればいいか、全くわからない。
その時、警報を発するかのように、ポケットから電子音が鳴り響いた。
先ほど、眠ろうとした時にセットしたアラーム。
そうだ。
このアラームを電話だと偽って取り、人を呼んだと言えば、こいつらを追い払えるかもしれない。
硬直した私の脳が、辛うじて見出した逃げ道だった。
「電、話……が」
「あ?」
「手、離、て。電話、来」
声が、うまく出せない。私、かなり動揺してるんだ。
言葉を言い切れない私を遮って、ザドが口を開いた。
「謝れや」
耳を疑う言葉だった。
「頭下げて、俺に謝れ」
痛いほど奥歯を噛み締めて、骨と関節が軋むほどの力で、抵抗する。
だけど、体重を掛けて抑えつけてくるザドの手は、微塵も動かなかった。
「無理だからよ。さっさと頭下げろや」
私は、無理やり乱暴された挙句に、許しまで乞わないといけないの?
最大限の力を振り絞るものの、抗うほどに、自分の無力さを思い知らされてしまう。
悔しさが増すにつれて、敗北が近づいてくる。
憎しみと共に、絶望が色濃くなっていく。
弱者は強者に屈服するのが当たり前。だから、弱いお前が悪い。
そう言わんばかりの目で、ザドは私を睨んでいる。
悲しいことに、その目には、見覚えがあった
母の眼差しを、彷彿とさせられてしまった。
だとすれば、いつか私も強くなったら、同じ目をするようになるのだろうか。
痛みに愚鈍になって、哀れな弱者を当然の如く虐げる、動物になっていくのだろうか。
それがこの世の道理だと、信じ込んで。
真理なのだと、自他に言い聞かせながら。
それなら、私はもう、この世に希望を見出せない。
だから、……。……もういい。
身体から力と共に、怒りが抜けていく。
悔しさも、悲しさも、よくわからなくなる。
観念したと思ったのか、ザドがニヤついた笑みを溢す。
その顔も、もう憎らしいとすら感じなかった。
謝るどころか、もう一声も発する気力が無かった。
心が、どこか深い所へと崩れ落ちていく。
感覚が、見えない膜で覆われていく。
もう全て、別の世界のことのようで、静かだ。
ただ、何かを警告するようなアラーム音だけが、膜の向こうで鳴り響き続けていた。
「えっ、何を」
ふいに、声がした。
「えっ、いったい、何を、え……? ああ⁉」
その声の主は、ドタドタと地面を踏み締め、雄叫びながら近づいて来た。
「あおおああ!」
私を押さえつけていたザドの体勢が一気に崩れ、厚みのある誰かが間に押し入った。
抑え込まれていた時とは違う、柔らかな圧迫感で潰されそうになる。
「早く走って! 逃げるよ!」
私の手を引いて彼は走り出す。
「待てコラ、てめえ!」
「うわああ、ちくしょおぉ‼」
だけど彼はあまり足が早くなく、一瞬でザドに追いつかれてしまった。
「ふざけんじゃねえぞ、デブ」
ザドが彼の胸ぐらを掴む。
その瞬間、反射したように彼の太い指が、ザドの襟と肘元をしっかりと握り込んだ。
激昂していたザドの目が、怯む。
「あ……」
しかし、恐怖に声を上げ、身を硬直させたのはザドではなく、彼の方だった。
「……上等だオラ、来いよ豚が‼」
怒鳴り声を上げて暴れ出したザドの腰に、彼はしがみ付く。
そして私を背中に庇ったまま、殴られながら身体の方向を変えていく。
彼は、私に逃げ道を作ってくれた。
「早く逃げろお‼」
彼の気迫に圧され、私の身体は走り出した。安全な場所へと、一目散に駆けていく。
本当に私は最低だ。
曲がり角で、自分の足を無理やり止める。
ここで一人で逃げたら、本当に私は最低だ。
振り返ると、何も抵抗しない彼に、ザドは容赦なく暴力を浴びせ続けていた。
上から拳を打ち下ろし、下から膝で蹴り上げる。
その鈍い打撃音が、空気を振動させて、ここまで響いてくる。
そのザドの姿は、自分を軽んじる後輩達に対しての見せしめも兼ねているかのようだった。
自分を笑う後輩達に、強さを顕示するかのように、力任せに彼を打ちのめしていく。
懸命にザドにしがみつく彼の背中が、段々と弱っていくのを感じた。
彼が殺されてしまう。焦った私は、無意識に叫び声をあげた。
「先生! 宗道先生こっち‼ 早くッ‼」
その叫びは、思っていた以上の効力を発揮してくれた。
「宗道……? めんどくせえ! おい、行くぞ! 二度と調子に乗んじゃねえぞ、雑魚がよお!」
ザド達が走り去っていく足音に安堵して、曲がり角から駆け戻る。
瞬間、私の足は硬直した。
「君、星見さんでしょ。よく似てる」
四人の中で、唯一興味無さそうにしていた三年生が一人、そこに立っていた。
私が咄嗟に叫んだ嘘を見抜いたのか、そもそも先生が来る事なんて意にも介していないのか、悠然と立っている。
そんな得体の知れない男が自分を知っているのは、酷く気味が悪かった。
「星見さんでしょって聞いてるんだけど?」
「……知らない」
こいつらの取り巻きの二人は、同級生だった。
だから、私が星見だということは、すぐにバレるだろう。
それでも、私の身体は身構えて、言葉は抵抗の意志を示した。
その男は、僅かに目元を歪め、鼻で笑うような息を吐くと、私に背を向けた。
「お前、今、間違えたからね。可哀想に」
その言葉の意図はわからなかったが、背中に怖気が走り、鳥肌が立つ。
歩き去る男の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってから、私は、ぐったりと倒れ込む彼の元へと走った。
そして物陰を伝うように歩き、校舎から離れて設置されているプールへと辿り着いた。
ここに到着した時点で、もうすでに誰とも出会わずに済むだろう。
数年前に水泳の授業が廃止となってからは誰も近づかなくなり、ほとんどの生徒がこの建物がプールなのだということすらも知らないらしいから。
正面入り口はもちろん施錠されているので、私は、その裏側へとまわる。
学校の健康的な空気からは程遠い、淀んだ湿気が濃くなっていく。
ずっと水分を含んだままの土と、陽の光を知らないであろう低木と雑草。
じめじめとして、昼間でも薄暗く、健全な人達を遠ざける陰気な空間。
その壁面の中ほどにある、アルミ扉のドアノブを握る。
鍵の壊れたそのドアノブを引くと、ひんやりとしたカビ臭い空気が外へと漏れ出した。
ここが、去年の秋に見つけた、私の隠れ場所だ。
ちぎれたビート板に、壊れたハードル。ズタボロのボールや、錆びたバット。
廃棄同然の運動器具がひっそりと眠る、雑多な物置と化した元プール用具倉庫。
誰も来ない、誰も来るわけがない、私だけのセーフティーゾーン。
「おやすみ……」
そわそわとする胸を落ち着けるように、そう唱え、埃っぽいマットの上に寝転ぶ。
そして、スマートフォンのアラームを授業が終わる時間にセットし、朽ちた器具達に混ざって、現実から目を瞑った。
倉庫内は静寂だった。
なのに眠ろうとすると、耳は過敏になり、遠くから響く微かな音すらも拾ってしまう。
笛の音。生徒の笑い声。ボールが弾む音。私が逃げた体育の授業の音。
罪悪感で、胸が騒めく。
湿気と閉塞感も相まって、やけに息苦しくなってくる。
やっと誰も来ない安全圏まで逃げ込んだのに、心は、どんどんと安堵から離れていく。
どうして私は、こんなところに隠れて、情けなく怯えているんだろう。
私は小さい頃からずっと、強く在ろうとして、そう振舞ってきたのに。
どうして今、こんな私へと至ってしまっているのだろう。
そんな不安の虫が、止めどなく湧いてくる。
「おやすみ……、おやすみ……」
そんなことを唱えても、眠りに落ちる事なんて、もう出来そうにない。
もう、駄目だ。
私の手が、スカートのポケットからライターと箱を取り出した。
この煩わしい思考を、早くぼやかさないと耐えられない。
煙と共に、胸に巣食う悪感情を吐き出さないと、もうまともに息が吸えない。
それなのに、何故か、何度やっても火が着いてくれなかった。
家から適当に持ってきたブランドライターを、恨めしく握り締める。
このヤスリを回して着火するタイプのライターが、私は酷く下手だった。
紙巻を咥えながら、ひりひりと親指を痛め、煙なんかを必死に求めている。
そんな自分があまりに情けなくて、視界が滲む。
仕方なく、かび臭い湿気を、ゆっくりと吸ってみる。
吐くと、光の中を揺蕩う埃が踊った。
粉っぽいコンクリート張りの室内に、小さな窓から差し込む細い光。
まるで牢屋みたいだった。
「……ぴったり」
無声音で自嘲を吐く。
今の私の心境に、牢屋はぴったりだ。
無論、怠惰に横たわって紫煙なんかを求めている私は、囚われのお姫様などではなく、ふて腐れた囚人だ。
それでも、誰か助けて、と泣いてしまいたい気持ちだった。
小さな子供みたいに、喚きたかった。
もう限界。ここから出して。別の世界に連れてって。
そう思った時、ふいに光の中の埃が、妖精の粉のように煌めき舞った。
それを私は、何かの導きのように感じてしまった。
なにを非現実な、御伽噺みたいなことを。頭ではそうわかっている。
わかっているのに、鬱気に酔った私の手は、空想に縋って、アルミ扉を開いてしまった。
「あ、居たわ。ザドくーん、居たよー」
「まじか、その扉開くのかよ」
外に出たのは間違いだった。
曲がり角から、四人の男がコソコソと笑みを浮かべながら、私を見ている。
その内の三人は見た事があった。
素行の悪さで有名なザドと呼ばれる三年生と、その取り巻きらしい同級生の二人組。
もう一人の興味なさそうに立っている三年生は、よく知らなかった。
思えば、玄関で靴を履き替えている時、自動販売機の方に人の気配を感じてはいた。
だけど、後をつけられるだなんて、思いもしなかった。
「お、いいじゃん」
私の手にライターを見つけたザドが、ポケットからわざとらしく同じ物を取り出した。
「うわ、ザドくんマジで行ったわー、尊敬ー」
「すげぇー、勇敢だわー」
ほとんど嘲りに近い後輩二人からの賛辞に、ザドは一瞬顔を顰めた。
それでも、気を取り直したように歩み寄ってくる。
「授業中に吸うのが、やっぱ一番美味えよな」
「美味い……?」
これを美味いという感覚が、私にはよくわからなかった。
煙は味わっても、煙だ。匂いと刺激でしかない。
考えてみれば、これを良いものだと思って堪能したこともなかった。
逃げるように、縋るように吸入する私からしたら、そもそも味わうような優雅なものではない。
思考を、現実を、自分自身を、文字通り煙に巻いて誤魔化すためのもの。
多くの意味で、まずいものだった。
「ちょっと一緒に吸おうぜ」
「……私、もう吸い終わったので」
切り抜けるための咄嗟の嘘。
吐き慣れない嘘に、心臓が早鐘を打つ。
「そりゃそうだろな。だから出てきたんだろうし」
「ザドくんさ、ちゃんと考えてから話しなって」
嘘は通用したものの、呆れたように笑う後輩達の言葉に、ザドの表情は強張っていく。
「じゃあ、ちょっと一緒に居てくれよ。前から気になっててよ。話してみたかったんだよ」
優しげな声音を装ってはいるものの、視線の先を辿れば、その本意は明白だった。
この男が私に抱いているのは、恋愛感情なんて素敵なものじゃない。
珍しい女を捕まえて皆に見せびらかしたい。
そういう類の俗物極まりない欲望だ。
短絡的で本能的なその単純思考は、嫌悪感を振り切って、一種の羨ましさすら感じるほどだった。
宗道先生から昼に受けたばかりの忠告が、脳裏を過ぎる。
お前は目立つ。それだけ、悪意ある奴の目にも付きやすい。用心しろ。
言われて間も無く、この事態だ。あまりにも無様で、救えない。
鬱積していく自己嫌悪を、堪らず地面に吐き溢す。
「最悪!」
私の口は、思っていたよりもずっと強い声を出してしまった。
はは! だよな、わかるわ! やっぱザドくんじゃ無理だ! あはは!
そんな後輩達の嘲笑に、ザドがムキになってしまったのがわかる。
直感が警鐘を打ち鳴らす。
状況を急速に悪化させてしまった。
背を向けて逃げようとした私の腕をザドが掴み、引き寄せようとしてくる。
「おい、本当に、ただ話すだけだからよ、警戒すんなって」
ザドが乱暴に私の肩へ腕を回してくる。
警戒するな、という言葉とは裏腹に、力の込められたその腕は、間違いなく私を脅していた。
暑苦しい懐へと抑え込まれ、後輩達の方へと無理やりに歩かされる。
まるで私が、すでに自分の物になったかのように、ザドは自慢げな笑みを浮かべていた。
激しい怖気と共に、虫酸が走る。そして、殺意すらも覚えた。
力ずくで良い様に出来る。そう思わせてしまっている、情けない自分自身に対して。
「嫌だ! 触らないでよ!」
精一杯の力で、身体を振り乱す。
「本当に嫌だ! やめてよ! 気持ち悪い!」
必死に抗う私の口は、まるで幼い子供の様な叫びをあげていた。
「あ? なんだよ、気持ち悪いは無えだろ」
その余裕そうに抱き込んでくる腕を、死に物狂いで振り解こうとした時、私の肘がザドの鼻を勢いよく弾いた。
衝撃と共に、一瞬で空気が変わり、凍りついていく。
ザドの顔に貼り付けられていた微かな笑みが、消え失せた。
「お前」
突き飛ばすように壁に打ち付けられて、両手を抑え込まれてしまう。
「調子乗り過ぎだろ」
抑揚の無い低い声に、見据えてくる暗い瞳。
思考が読み取れず、何をしてくるのかわからなくて、恐かった。
いつもは煩わしいくらいの頭の中が、停止したように真っ白になって、動かない。
どうすればいいか、全くわからない。
その時、警報を発するかのように、ポケットから電子音が鳴り響いた。
先ほど、眠ろうとした時にセットしたアラーム。
そうだ。
このアラームを電話だと偽って取り、人を呼んだと言えば、こいつらを追い払えるかもしれない。
硬直した私の脳が、辛うじて見出した逃げ道だった。
「電、話……が」
「あ?」
「手、離、て。電話、来」
声が、うまく出せない。私、かなり動揺してるんだ。
言葉を言い切れない私を遮って、ザドが口を開いた。
「謝れや」
耳を疑う言葉だった。
「頭下げて、俺に謝れ」
痛いほど奥歯を噛み締めて、骨と関節が軋むほどの力で、抵抗する。
だけど、体重を掛けて抑えつけてくるザドの手は、微塵も動かなかった。
「無理だからよ。さっさと頭下げろや」
私は、無理やり乱暴された挙句に、許しまで乞わないといけないの?
最大限の力を振り絞るものの、抗うほどに、自分の無力さを思い知らされてしまう。
悔しさが増すにつれて、敗北が近づいてくる。
憎しみと共に、絶望が色濃くなっていく。
弱者は強者に屈服するのが当たり前。だから、弱いお前が悪い。
そう言わんばかりの目で、ザドは私を睨んでいる。
悲しいことに、その目には、見覚えがあった
母の眼差しを、彷彿とさせられてしまった。
だとすれば、いつか私も強くなったら、同じ目をするようになるのだろうか。
痛みに愚鈍になって、哀れな弱者を当然の如く虐げる、動物になっていくのだろうか。
それがこの世の道理だと、信じ込んで。
真理なのだと、自他に言い聞かせながら。
それなら、私はもう、この世に希望を見出せない。
だから、……。……もういい。
身体から力と共に、怒りが抜けていく。
悔しさも、悲しさも、よくわからなくなる。
観念したと思ったのか、ザドがニヤついた笑みを溢す。
その顔も、もう憎らしいとすら感じなかった。
謝るどころか、もう一声も発する気力が無かった。
心が、どこか深い所へと崩れ落ちていく。
感覚が、見えない膜で覆われていく。
もう全て、別の世界のことのようで、静かだ。
ただ、何かを警告するようなアラーム音だけが、膜の向こうで鳴り響き続けていた。
「えっ、何を」
ふいに、声がした。
「えっ、いったい、何を、え……? ああ⁉」
その声の主は、ドタドタと地面を踏み締め、雄叫びながら近づいて来た。
「あおおああ!」
私を押さえつけていたザドの体勢が一気に崩れ、厚みのある誰かが間に押し入った。
抑え込まれていた時とは違う、柔らかな圧迫感で潰されそうになる。
「早く走って! 逃げるよ!」
私の手を引いて彼は走り出す。
「待てコラ、てめえ!」
「うわああ、ちくしょおぉ‼」
だけど彼はあまり足が早くなく、一瞬でザドに追いつかれてしまった。
「ふざけんじゃねえぞ、デブ」
ザドが彼の胸ぐらを掴む。
その瞬間、反射したように彼の太い指が、ザドの襟と肘元をしっかりと握り込んだ。
激昂していたザドの目が、怯む。
「あ……」
しかし、恐怖に声を上げ、身を硬直させたのはザドではなく、彼の方だった。
「……上等だオラ、来いよ豚が‼」
怒鳴り声を上げて暴れ出したザドの腰に、彼はしがみ付く。
そして私を背中に庇ったまま、殴られながら身体の方向を変えていく。
彼は、私に逃げ道を作ってくれた。
「早く逃げろお‼」
彼の気迫に圧され、私の身体は走り出した。安全な場所へと、一目散に駆けていく。
本当に私は最低だ。
曲がり角で、自分の足を無理やり止める。
ここで一人で逃げたら、本当に私は最低だ。
振り返ると、何も抵抗しない彼に、ザドは容赦なく暴力を浴びせ続けていた。
上から拳を打ち下ろし、下から膝で蹴り上げる。
その鈍い打撃音が、空気を振動させて、ここまで響いてくる。
そのザドの姿は、自分を軽んじる後輩達に対しての見せしめも兼ねているかのようだった。
自分を笑う後輩達に、強さを顕示するかのように、力任せに彼を打ちのめしていく。
懸命にザドにしがみつく彼の背中が、段々と弱っていくのを感じた。
彼が殺されてしまう。焦った私は、無意識に叫び声をあげた。
「先生! 宗道先生こっち‼ 早くッ‼」
その叫びは、思っていた以上の効力を発揮してくれた。
「宗道……? めんどくせえ! おい、行くぞ! 二度と調子に乗んじゃねえぞ、雑魚がよお!」
ザド達が走り去っていく足音に安堵して、曲がり角から駆け戻る。
瞬間、私の足は硬直した。
「君、星見さんでしょ。よく似てる」
四人の中で、唯一興味無さそうにしていた三年生が一人、そこに立っていた。
私が咄嗟に叫んだ嘘を見抜いたのか、そもそも先生が来る事なんて意にも介していないのか、悠然と立っている。
そんな得体の知れない男が自分を知っているのは、酷く気味が悪かった。
「星見さんでしょって聞いてるんだけど?」
「……知らない」
こいつらの取り巻きの二人は、同級生だった。
だから、私が星見だということは、すぐにバレるだろう。
それでも、私の身体は身構えて、言葉は抵抗の意志を示した。
その男は、僅かに目元を歪め、鼻で笑うような息を吐くと、私に背を向けた。
「お前、今、間違えたからね。可哀想に」
その言葉の意図はわからなかったが、背中に怖気が走り、鳥肌が立つ。
歩き去る男の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってから、私は、ぐったりと倒れ込む彼の元へと走った。