世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
私は、ぎこちなく指を動かした。
わざと、テンポを乱しながら。
指の動きも、どこかためらいがちに。

……でも。

音だけは、嘘をつかなかった。
抑えきれない響きが、静かに会場に溶け出していく。

本気じゃない。けれど、雑でもない。

フォームもそうだ。
無駄な力は入っていない。
手首の位置も、指の角度も、自然体で――洗練されていた。

彼は、その手元を見ていた。
じっと、食い入るように。

私は、気まずくなって手を止めた。

視線を上げると、彼と目が合う。

「……本当に、初心者ですか?」

ふっと笑って、そう言われた。

「え?」

私は少し焦りながら、笑ってごまかした。

「そう……見えますか?」

「意外と、昔の感覚が残ってたのかも……なんて」

彼は、その言葉に反応せず、私の顔を見つめた。
まるで、思い出を探るように。

そして、ぽつりとつぶやく。

「……どこかで見たことあるような」

息が詰まるような沈黙が落ちた。

私は笑い返す余裕もなく、目を伏せた。

けれど、彼はすぐに空気を変えた。

「――まあ、いいや」

彼は軽く肩をすくめ、胸元から名刺ケースを取り出した。

革張りの、それは使い込まれていたけど、丁寧に扱われているのがわかった。

「もし、興味がおありなら。ぜひ」

そう言って、一枚の紙を渡してきた。

私は、受け取って見た。

《金城 湊》(かねしろみなと)

その名前を見た瞬間、心臓がひとつ跳ねた。

金城――
KANEROの創業者一族。

金城家は、世界的なピアノ職人の家系。
調律師としても超一流で、うちのグランドピアノも、確か……金城の家の技術者が、定期的に調律に来ている。

(まさか……)

思わず、彼の顔をもう一度見た。
優しげだけど、どこか芯の強そうな目をしていた。

「……金城さんって、あの……?」

「“あの”かどうかは、わかりませんけど」

彼は小さく笑った。
まるで、それを聞き慣れているかのように。

「ただのピアノ職人です」

そう言ったその声に、嘘はなかった。
でも、隠してる気配も、たっぷりあった。
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