世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
声をかけてきた男性は、
どこか、空気の層が違う感じがした。

無理に距離を詰めるでもなく、
けれど目線は、まっすぐにこちらを見ている。

私は、とっさに視線を逸らして、
小さく笑って言った。

「……あまり、わからないんですけど」

「子どもの頃、ちょっとだけ習ってたくらいで」

「なんか……懐かしくて、つい」

彼は、ふっと優しく笑った。

「そうでしたか」

「ピアノって、不思議ですよね」

「久しぶりに触れても、音だけは、ちゃんと記憶を引き出してくれる」

「……ぜひ、弾いてみてください」

私は、少し戸惑ったふりをした。

「でも……こんな高そうなピアノ、私なんかが弾いていいのかなって」

「大丈夫です」

彼は言った。

「これは“触れてほしいピアノ”なんです」

「本当にいい楽器って、閉じこもってたらダメなんですよ」

「人に触れてもらって、音を鳴らしてもらって」

「それで、やっと“楽器”になる」

その言葉に、不思議と心が動いた。

(……何、この人)

ただの販売員じゃない。

でも、それ以上に、
“ピアノが好きな人”だということだけは、わかった。

私は、静かにうなずいた。

そして、再び、鍵盤に指を置いた。
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