世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
これも、全部好きだから
璃子は、久しぶりに戻った実家の自室を、ゆっくりと見回した。
かつての日々の痕跡が、まだそこかしこに残っている。
机の引き出しには、コンクールに使った楽譜が整然と並び、
あの日、アルテミス本選直前に破り捨てたはずの一冊が――
丁寧に糊で貼り合わせられ、透明なファイルに収められていた。
「……お母さん……」
思わず溢れそうになった涙を、璃子はきゅっと堪える。
新しい生活に持っていくものを選びながら、
思い出のひとつひとつに、そっと手を添えた。
楽譜を止めるクリップ、
そして湊がコンクールのために作ってくれた、
導線やホールの機種に至るまで詳細に書かれた資料たち。
本当はもう使わない。
でも、どうしても捨てられなかった。
今となっては、大切な記憶。
「こんなに持って行ったら、湊さん怒るかな……」
小さくつぶやいて、ふっと笑う。
「……でも、湊さんなら、きっと許してくれるよね」
遠慮なく箱に入れていくと、
部屋のドアが開き、様子を見に来た由紀子が笑った。
「そんなに昔の資料を持って行ったら……新しい楽譜を置く場所がなくなるわよ。いくら広いって言ってもね」
「だよね」
璃子が笑って、箱の中からファイルをひとつ取り出すと、
隙間から一枚、紙がひらりと舞い落ちた。
――あの日、感情に任せて破り捨てた、楽譜。
それを貼り合わせた跡が、痛々しいほどに真っ直ぐだった。
由紀子はそれを拾い上げ、
破れた紙の縁をそっとなぞりながら言った。
「璃子が、こんなに苦しんでたなんて……
気づけるタイミング、いくらでもあったのにね。
私は……あなたを、何も見ていなかったのね」
璃子は、ゆっくりと首を振った。
「でも……ピアノコンクールに出たこと、後悔してないよ。
フランスで、湊さんの優しさに気づけたし。
……というか、湊さんにも叱られたんだよね。
初日に『コンクールなんてどうでもいい』って言ったら、
『逃げるのは違う』って、ちゃんと怒ってくれた」
由紀子は、ふっと口元を緩めた。
「……どこに行っても、湊さんなのね。璃子は」
「うん。だって、湊さん、いつもピアノのそばにいてくれるんだもん」
由紀子は少し目を細めて、言葉を継いだ。
「でも、これからは……ピアノがあっても、なくてもいいのよ。
湊さんのいる場所が、璃子の場所でいい。
あなたが、あなたらしくいられる場所が一番よ」
璃子は、一瞬目を伏せ、それからまっすぐ由紀子を見た。
「……うん」
初めて、母と心が通った気がした。
秋の風が窓越しにそっと揺れ、部屋の空気を撫でていく。
服は、いっぺんには持っていけない。
クローゼットには季節ごとの服がぎっしり詰まっていた。
「とりあえず、温かいものだけ持っていきなさい。季節が変わったらまた取りに来ればいい。……忙しかったら送るから、季節ごとにまとめておいて」
「……うん」
璃子はクローゼットを見回し、衣装ケースを整理する。
そのあと、くるりと由紀子の方を向いて、ふわりと微笑んだ。
「……ありがとうね、お母さん。
私に、ピアノを教えてくれて」
由紀子は、その言葉に少しだけ肩を震わせて、
「……うん」とだけ、静かに答えた。
かつての日々の痕跡が、まだそこかしこに残っている。
机の引き出しには、コンクールに使った楽譜が整然と並び、
あの日、アルテミス本選直前に破り捨てたはずの一冊が――
丁寧に糊で貼り合わせられ、透明なファイルに収められていた。
「……お母さん……」
思わず溢れそうになった涙を、璃子はきゅっと堪える。
新しい生活に持っていくものを選びながら、
思い出のひとつひとつに、そっと手を添えた。
楽譜を止めるクリップ、
そして湊がコンクールのために作ってくれた、
導線やホールの機種に至るまで詳細に書かれた資料たち。
本当はもう使わない。
でも、どうしても捨てられなかった。
今となっては、大切な記憶。
「こんなに持って行ったら、湊さん怒るかな……」
小さくつぶやいて、ふっと笑う。
「……でも、湊さんなら、きっと許してくれるよね」
遠慮なく箱に入れていくと、
部屋のドアが開き、様子を見に来た由紀子が笑った。
「そんなに昔の資料を持って行ったら……新しい楽譜を置く場所がなくなるわよ。いくら広いって言ってもね」
「だよね」
璃子が笑って、箱の中からファイルをひとつ取り出すと、
隙間から一枚、紙がひらりと舞い落ちた。
――あの日、感情に任せて破り捨てた、楽譜。
それを貼り合わせた跡が、痛々しいほどに真っ直ぐだった。
由紀子はそれを拾い上げ、
破れた紙の縁をそっとなぞりながら言った。
「璃子が、こんなに苦しんでたなんて……
気づけるタイミング、いくらでもあったのにね。
私は……あなたを、何も見ていなかったのね」
璃子は、ゆっくりと首を振った。
「でも……ピアノコンクールに出たこと、後悔してないよ。
フランスで、湊さんの優しさに気づけたし。
……というか、湊さんにも叱られたんだよね。
初日に『コンクールなんてどうでもいい』って言ったら、
『逃げるのは違う』って、ちゃんと怒ってくれた」
由紀子は、ふっと口元を緩めた。
「……どこに行っても、湊さんなのね。璃子は」
「うん。だって、湊さん、いつもピアノのそばにいてくれるんだもん」
由紀子は少し目を細めて、言葉を継いだ。
「でも、これからは……ピアノがあっても、なくてもいいのよ。
湊さんのいる場所が、璃子の場所でいい。
あなたが、あなたらしくいられる場所が一番よ」
璃子は、一瞬目を伏せ、それからまっすぐ由紀子を見た。
「……うん」
初めて、母と心が通った気がした。
秋の風が窓越しにそっと揺れ、部屋の空気を撫でていく。
服は、いっぺんには持っていけない。
クローゼットには季節ごとの服がぎっしり詰まっていた。
「とりあえず、温かいものだけ持っていきなさい。季節が変わったらまた取りに来ればいい。……忙しかったら送るから、季節ごとにまとめておいて」
「……うん」
璃子はクローゼットを見回し、衣装ケースを整理する。
そのあと、くるりと由紀子の方を向いて、ふわりと微笑んだ。
「……ありがとうね、お母さん。
私に、ピアノを教えてくれて」
由紀子は、その言葉に少しだけ肩を震わせて、
「……うん」とだけ、静かに答えた。