世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
由紀子が、そっと言った。

「……この後、どうしたいの?」

それは、初めて璃子に向けられた、“選ばせる”問いだった。

璃子は、一瞬答えに詰まった。
自分の気持ちははっきりしている。
けれど、言ってしまっていいのか迷ってしまう。
母の言葉の重みに、まだ心がついていかない。

そんな璃子の背中に、湊がそっと手を添えた。
大丈夫、と言うように。
言っていいんだよ、と背中を押すように。

璃子は、意を決して顔を上げた。

「……湊さんと、ずっと一緒にいたい。でも――」

言葉を切る。
目線は少し泳ぎ、無意識に創の方を見る。

(部屋を借りられるだけの経済力も、なんの計画もないし……)

その思いを、まるで見透かしたように、聡一が口を開いた。

「都内のタワーに、空きがある。渋谷の《グラン・ルミエール代々木公園》っていう物件だ。投資用に持っていたが……君たちの新しい門出に、使ってほしい。
俺と由紀子の……今までの謝罪の気持ちでもある」

「え……」璃子は、驚きの声を漏らす。

「そんなの、もったいないよ。そこ、すごくいいところじゃん。……普通のマンションでいいし、私」

聡一は静かに首を振る。

「普通のマンションでは、グランドピアノが鳴らせない。あそこは防音も入ってるし、もともと音楽家向けに設計されてる。KANEROのハイクラスも設置済みだ」

その名前に、湊の眉がわずかに上がった。

「……《KANERO - Signature Prestige》ですか?」

「ああ。うちのと同じ仕様だ。響きも空間も、作りは申し分ない」

そんなやりとりを見ながら、創がふっと笑う。

「いやあ……うちの息子も、なかなかのボンボンだからね、璃子ちゃん。覚悟しておいたほうがいいよ?」

璃子がぽかんとすると、創はおどけたように続けた。

「この人さ、ネギ一本外商に頼むんだよ? 『有機のがいい』とか言って。ピアノに関してもね、調律師がいればもう盤石だよね?」

場の空気が和み、ふっと柔らかな笑いが広がる。

湊が少し照れたように言った。

「……父さん、それバラさなくていいから」

由紀子は、娘の笑顔を見て、小さく息を吐いた。
それは、これまでの緊張を手放すような、母親としての初めての安堵だった。

璃子は、あらためて両親を見つめる。

「……ありがとう。」

その目に浮かぶのは、涙ではなく、まっすぐな光。

湊も続ける。

「本当に……ありがとうございます。璃子さんと、しっかり歩んでいきます」

この日、ようやく「家族」という言葉が、重圧から、温もりに変わった。
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