世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
新居の玄関が、段ボールの山で少しだけ狭くなっていた。

湊はその一つひとつを、慎重にリビングに運び込む。
璃子はまだ実家に残っていて、今日は荷物だけを受け取る日。
午後には璃子も合流する予定だった。

段ボールの側面には、彼女の丁寧な文字で
「秋冬服」「メイク」「楽譜(昔)」
そして一つ、少し角がへこんだ箱にだけ、こう書かれていた。

――「ぬいぐるみ・決めきれなかったやつたち」

湊は、思わず笑ってしまった。

「……“やつたち”て……」

口の中でつぶやきながら、その箱をそっと開けると、
ふわふわの小さなぬいぐるみがぎゅうぎゅうに詰まっていた。

明らかに年季の入ったもの、
シーズン限定っぽい大きなウサギ、
そして、あきらかにクレーンゲーム産であろう小さなサメ。

「……どれか一つにしぼれなかったんだな」

湊は、ぬいぐるみたちを一体ずつ並べては、首をかしげる。
どれも少しだけ擦り切れていて、でも綺麗にしてある。
箱の底には、プリクラが一枚挟まれていた。
璃子が結花と撮ったものらしく、
背景に「卒業旅行♡沖縄」と書いてある。

「……これも、“ぬいぐるみカテゴリー”に入ってるのか」

苦笑しながらも、湊はそっとファイルにしまってから、
段ボールの中身をひとつひとつ、仮の棚に並べた。
この作業を、あとで璃子と一緒に「改めてやる」のが目に見えているけれど。

いや、それでいい。
こういう“答えを後まわしにしたものたち”に、
その人の輪郭がよく出る。

彼女は、優しくて、ちょっと迷いがちで、
でもちゃんと大事なものを手放さない強さがある。

そして、そのすべてを――
俺は、愛おしいと思ってるんだ。

「……ぬいぐるみも全部OK。棚の一角、確保しといたから」

誰にともなく言ってから、湊はふと手を止める。

段ボールの最後に、小さな封筒が貼られていた。
“開封は湊さんと一緒に”とだけ、璃子の字。

彼は、その封筒を手に取って笑う。

「……やっぱ、待つか」

そして湊は、ぬいぐるみたちの隣に、封筒をそっと置いた。

家の中に、やわらかな静けさが満ちていく。

まもなく、璃子がやってくる。
この場所が、彼女にとって――そして自分にとっても、
“帰る場所”になるのだと思いながら。

湊は、カーテン越しに午後の日差しを眺めていた。
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