世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
午後三時を少し過ぎたころ、インターホンが鳴った。
湊がドアを開けると、そこには小さなスーツケースを転がした璃子がいた。
ゆるくまとめた髪、少しだけ色のついた頬。
そして、見慣れたネックレスが今日も胸元で揺れている。
「ただいま……って言っていいのかな」
「いいよ。もう、ここが璃子の家なんだから」
そう言って、湊は彼女の荷物を受け取る。
玄関に一歩足を踏み入れると、璃子は目を丸くした。
「……ぬいぐるみ、全部出してくれたの?」
「出した。ちょっとした展示会みたいになってるけど」
璃子は、並べられたぬいぐるみたちを見て笑い、
そっとそのうちのひとつ――ボタンのとれかけたクマを抱き上げた。
「捨てられなかったんだよね、これ。いつも練習の前に抱いてたから」
湊は、彼女のその何気ない言葉を胸の中で繰り返した。
――練習の前に。
ずっと、ひとりで戦ってきたんだな。
「そういえば……これ」
湊は、ソファの近くの小棚からあの封筒を手に取る。
“開封は湊さんと一緒に”と書かれた、あの手紙。
璃子は少し照れたように目をそらし、
けれど、そっと受け取って膝の上に置いた。
「……読んでもいい?」
「もちろん」
璃子は封を切り、中の便箋を開いた。
筆跡は少し揺れていたけれど、丁寧に書かれていた。
⸻
湊さんへ
この家で一緒に暮らすことになったとき、
何を持って行くか、すごく悩みました。
でも、それ以上に悩んだのは、
“気持ち”をどう伝えたらいいかってこと。
ピアノのことも、自分のことも、
ずっと誰かに見せるのが怖かったのに、
湊さんには、見せてもいいって思えた。
あの日、練習で指が動かなくて、全部投げ出したくなったとき、
黙って私の隣に座って、何も言わずに、音だけを弾いてくれたよね。
あの旋律に、私の気持ちがそのまま重なって、
気づいたら涙が出てた。
私が諦めそうになった時間を、
あなたは責めずに、音で包んでくれた。
だから、これからは――
壊れても、一緒に直していける人でいたいです。
これ、ちょっとプロポーズっぽいかもね。
でも、いいかな。
これが、私なりの“ただいま”です。
璃子
⸻
読み終わると、ふたりの間に静かな時間が流れた。
湊は、彼女の肩を引き寄せ、そっと額に唇を当てる。
「……泣かせること言うなよ」
「言ってないもん、書いたの。しかも前に」
「余計にずるいな」
璃子は、ちょっといたずらっぽく笑った。
その笑顔が、湊にはなにより愛おしかった。
彼はそっと封筒を箱の上に戻すと、言った。
「じゃあ、こっちもちゃんと“おかえり”って言わなきゃな」
そして――
「おかえり、璃子」
璃子は、湊の胸に顔を埋めたまま、小さく答えた。
「ただいま」
その一言が、新しい暮らしの、最初の言葉になった。
湊がドアを開けると、そこには小さなスーツケースを転がした璃子がいた。
ゆるくまとめた髪、少しだけ色のついた頬。
そして、見慣れたネックレスが今日も胸元で揺れている。
「ただいま……って言っていいのかな」
「いいよ。もう、ここが璃子の家なんだから」
そう言って、湊は彼女の荷物を受け取る。
玄関に一歩足を踏み入れると、璃子は目を丸くした。
「……ぬいぐるみ、全部出してくれたの?」
「出した。ちょっとした展示会みたいになってるけど」
璃子は、並べられたぬいぐるみたちを見て笑い、
そっとそのうちのひとつ――ボタンのとれかけたクマを抱き上げた。
「捨てられなかったんだよね、これ。いつも練習の前に抱いてたから」
湊は、彼女のその何気ない言葉を胸の中で繰り返した。
――練習の前に。
ずっと、ひとりで戦ってきたんだな。
「そういえば……これ」
湊は、ソファの近くの小棚からあの封筒を手に取る。
“開封は湊さんと一緒に”と書かれた、あの手紙。
璃子は少し照れたように目をそらし、
けれど、そっと受け取って膝の上に置いた。
「……読んでもいい?」
「もちろん」
璃子は封を切り、中の便箋を開いた。
筆跡は少し揺れていたけれど、丁寧に書かれていた。
⸻
湊さんへ
この家で一緒に暮らすことになったとき、
何を持って行くか、すごく悩みました。
でも、それ以上に悩んだのは、
“気持ち”をどう伝えたらいいかってこと。
ピアノのことも、自分のことも、
ずっと誰かに見せるのが怖かったのに、
湊さんには、見せてもいいって思えた。
あの日、練習で指が動かなくて、全部投げ出したくなったとき、
黙って私の隣に座って、何も言わずに、音だけを弾いてくれたよね。
あの旋律に、私の気持ちがそのまま重なって、
気づいたら涙が出てた。
私が諦めそうになった時間を、
あなたは責めずに、音で包んでくれた。
だから、これからは――
壊れても、一緒に直していける人でいたいです。
これ、ちょっとプロポーズっぽいかもね。
でも、いいかな。
これが、私なりの“ただいま”です。
璃子
⸻
読み終わると、ふたりの間に静かな時間が流れた。
湊は、彼女の肩を引き寄せ、そっと額に唇を当てる。
「……泣かせること言うなよ」
「言ってないもん、書いたの。しかも前に」
「余計にずるいな」
璃子は、ちょっといたずらっぽく笑った。
その笑顔が、湊にはなにより愛おしかった。
彼はそっと封筒を箱の上に戻すと、言った。
「じゃあ、こっちもちゃんと“おかえり”って言わなきゃな」
そして――
「おかえり、璃子」
璃子は、湊の胸に顔を埋めたまま、小さく答えた。
「ただいま」
その一言が、新しい暮らしの、最初の言葉になった。