世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夜の部屋は、静かであたたかい空気に包まれていた。
引っ越しの余韻がそこかしこに残り、ダンボールの山の向こうには、新しい生活の匂いが少しずつ根を下ろし始めている。

璃子は、ベッドの端に腰掛けていた。
眠るにはまだ少し早くて、でも言わずにはいられない気持ちが、胸の奥でずっと疼いていた。

隣に座った湊が、そっとネックレスのチャームに触れる。
微かな揺れに目を落としながら、彼は不意に問いかけた。

「璃子……同棲生活、どうだった?」

低く、優しい声だった。
けれど、その裏に隠しきれない不安と、切実な願いがにじんでいた。

言葉にしながら、湊はきっとずっと苦しかった。
璃子が自分のそばにいない夜を、一日一日、こらえるように過ごしていた。

璃子は湊の手を、そっと握った。
触れるだけで伝わってくる、湊の温度と鼓動が胸に染みる。

「最初はね……なんだか、冷たく感じた。言葉も少なかったし、何を考えてるのか分からなかった」

少しだけ遠くを見つめて、璃子はゆっくりと言葉を選んだ。

「でも……私がよく泣いてたせいか、だんだん優しくなって……
たぶん、私の方が怯えてたの。拒絶してたのかもしれない。
そうしたら、篠原さんの方が“ごめん”って感じになってて……
なんだか、逆に傷つけちゃった気がする」

湊は黙って、じっと耳を傾けていた。

「冷たいって言われてる人だけど、本当は違った。
感情に鈍いとこはあるけど……ちゃんと人間らしさがあった」

璃子がそう言うと、湊はふっと微笑んだ。

「人間味、か……」

「うん」璃子は頷く。
「少なくとも、私をひどく傷つけたりはしなかった」

湊の目に、わずかに安堵の光が差す。
けれど、それでも、ひとつだけ、聞かずにはいられなかった。

「……どこ、触られた?」

それは、ずっと胸の奥で燻っていた問いだった。
聞いたところで何になるわけでもない。

けれど、それを知らなければ、過去として蓋をすることもできなかった。

璃子は目を丸くして、少し頬を赤らめた。

「えっ? な、何にもしてないよ。一緒に寝たこともないし」

少しだけ間を置いて思い出すように言う。

「……でも、手は……一度だけ、握られたかも」

その瞬間、湊は深く、静かに息を吐いた。
そして、迷いなく璃子を抱きしめた。

その腕は、どこか怒りでも嫉妬でもなく、ただただ――失われかけた時間を取り戻すように、切実に、強く、そして優しかった。

璃子は湊の胸に顔をうずめながら、ぽつりと呟く。

「私も……生きた心地しなかったよ」

「ずっと……湊さんに会いたかった。会えなくて、夢の中で何回も会ってた」

「毎晩、目が覚めるたびに、やっぱりいないって思い知らされて……
ごめんね。待たせて、ごめんね」

「……璃子」

湊の腕が、より強く璃子を包む。
璃子の華奢な体を、逃がさないように、大切なものを守るように。

ふたりの鼓動が重なるたび、璃子の胸に張りついていた氷が、ゆっくりと溶けていった。
ようやく――この夜にたどり着けた。

もう、ひとりじゃない。
もう、心を殺して眠る夜じゃない。

湊がいる。隣にいる。
それだけで、こんなにも呼吸がしやすい。

やっと、心から眠れる気がした。
< 145 / 217 >

この作品をシェア

pagetop