世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
寝室の灯りはすでに落とされていた。
ベッドに入ったふたりは、まだ体を寄せ合ったまま、静かに会話を交わしている。

璃子は湊の胸元に頭を預け、小さく息をついた。
その温もりに包まれるたび、胸の奥がじんわりと緩んでいく。

湊が、くすっと笑って言った。
「……ぬいぐるみ、持って来なくていいの?」

悪戯っぽく問いかけるその声に、璃子はふっと笑う。

「……あれは湊の身代わりだもん」
「本物は、あったかいし、こっちの方が好き」

そう言って、少しだけ顔を上げる。
湊は目を細めて、璃子の髪を撫でた。

「……幸せすぎて泣きそう」

ぽつりと零した言葉に、湊は優しく微笑んだ。

「泣き虫だね、璃子は」
「笑ってる方が、ずっと可愛いのに」

その言葉に、璃子の目がゆっくりと湊を見つめる。
やわらかな眼差し、揺れるまつげ、そして少し震える唇。

「湊……キスしてほしい。そしたら、泣き止むから」

その真っ直ぐな願いに、湊は目を細めた。
抱きしめたまま、少し躊躇いながらも、そっと額にキスを落とす。

けれど、璃子は小さく首を振った。

「……違う。口に、してほしいの」

理性を保とうとしていた湊の目に、わずかに戸惑いが浮かぶ。

「……あんまり、煽らないで」

そう言うと、璃子は無邪気な顔で首をかしげる。

「煽る? 煽り運転?」

あまりにも真面目な口調に、湊は思わず肩を震わせた。

「……そう。璃子、煽り運転はだめ。危ないから」

「……何の話?」

そう返され、湊は心の中で深くため息をついた。
この純粋なお嬢様には、何から教えていけばいいのか……。
甘さと理性のはざまで揺れながら、それでもたまらなく愛おしい。

ふと湊は、璃子の手にそっと触れた。
「そういえば……」と、彼は囁く。

「篠原さんに握られたって言ってたけど……俺が、ちゃんと上書きしなきゃな」

そう言いながら、湊はゆっくりと璃子の手を握り直す。
しっかりと自分の温もりを刻み込むように。

まずは指先に、優しく唇を重ねる。
「俺だけが触っていい手だよ」と囁きながら、一本一本丁寧にキスを落としていく。

続けて、掌をすべすべと撫で、柔らかな手の甲にもそっと口づける。
「誰にも渡さないから、ずっと俺のそばにいてほしい」

湊の甘い囁きに、璃子は顔を赤く染め、恥ずかしそうに視線を逸らす。

「そ、それは……ちょっと恥ずかしいよ」

湊は楽しそうに笑いながら、最後に手のひらを包み込むように強く握り、もう一度、ゆっくりと優しいキスをした。

「璃子の手は、俺だけのものだから」

その温かな手のぬくもりに包まれながら、璃子の胸は熱くなる。

そして湊は、そっと璃子の頬に手を添えて、優しく口づけた。
触れるだけのキス。
それでも、心を満たすには充分すぎるほど。

「……おやすみ」

そう囁くと、璃子の耳元に口を寄せ、髪越しにもう一度、静かにキスを落とした。

璃子は微笑みながら、湊の胸に顔を埋める。
ふたりの呼吸が重なっていく夜。
新しい生活の始まりを、こんなふうに迎えられることが、ただただ幸福だった。
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