世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
テレビ局のスタジオに入った瞬間、足がすくんだ。

TNS東京放送。
報道とドキュメンタリーに強く、社会派の切り口で知られるキー局だった。

(……映像に映るの、やっぱり苦手)

でも。

乗り越えなきゃ。
技術だけじゃ、戻れない。

「朝比奈璃子」として、もう一度、世間に向き合うって決めたのだから。

ディレクターから簡単な質問内容の説明を受けて、メイクを済ませ、セットの椅子に座る。
手のひらが少し汗ばむ。

(深呼吸、深呼吸……)

照明がつく。
カメラが回る。

MCが笑顔で声をかける。

「本日は、先日『アルテミス国際ピアノコンクール』で最高賞を受賞された、朝比奈璃子さんにお越しいただきました!」

璃子は、緊張を抑えながら笑顔を返す。

質問は、事前に聞いていた範囲では無難なものだった。
受賞時の感想、好きな作曲家、今後の活動――

しかし。

「……ところで朝比奈さん。休養期間中、一切のメディア露出がありませんでしたが、メンタルの不調や、ご家族との問題などが背景にあったという噂もあります。その点について、ご自身の言葉で説明いただけますか?」

一瞬、空気が変わった。

璃子の手が、膝の上で強張る。

「……え、っと」

声が、喉につかえる。

「公に発表されたのは“体調不良”ということでしたが……それが精神的な面なのか、それとも外的な事情なのか。ピアノ界の期待の星だっただけに、ファンの方々も気にされていて……」

カメラが、じわじわと寄ってくる。

璃子は目を伏せ、ほんのわずかに眉を震わせた。

(どうして……これは、予定にない質問)

背筋がこわばる。
言葉を探しても、喉の奥が凍ったようで、出てこない。

「──あの」

やっとのことで、声を出す。

「……少し、うまく……言葉にできません。すみません」

MCが慌ててフォローに入る。
「いえ、無理に答えていただかなくて大丈夫です。ごめんなさい、少し踏み込みすぎましたね」

そのまま、VTR紹介へと流れが変わった。

でも璃子の胸の中は、冷たい水を流し込まれたようにざわついていた。

(まだ……私は、“朝比奈璃子”という枠の中でしか見られていない)

どれだけピアノに向き合っても、
どれだけ苦しんでも。

それを知らない誰かの言葉は、平気で心の奥を踏みにじってくる。

それでも。

(……逃げない)

ここで崩れたら、すべてが元通りになってしまう。

璃子はそっと、唇を引き結んだ。

隣のスタッフが、タオルと水を差し出してくれる。
璃子は小さく頭を下げて、それを受け取った。

──本当の意味で“復帰する”って、簡単なことじゃない。
でも、その痛みすら、覚悟のうち。

また、明日も前に進むために。
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