世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
スタジオのピアノから離れ、湊と並んで歩いていたときだった。

遠巻きに見ていた創が、ふと歩み寄ってくる。

「璃子さん」

その声に、璃子が立ち止まる。

「来月──11月の頭にね、鳳鳴大学附属の幼稚園の子たちが、うちの工場見学に来るんだよ」
「そのとき、子ども向けの童謡とか……ちょっと弾いてもらえないかなって思ってて」

「えっ……」

璃子の目が、少しだけ見開かれる。

すぐ横で湊が、柔らかく笑った。

「子ども相手なら、気負わずに弾けるかなって。もちろん無理にとは言わないけど、ね?」

璃子は、ほんの少しだけ視線を伏せた。

子どもの前でピアノを弾く――想像もしていなかった。

(私に……できるのかな)

創は、そんな彼女の心の動きを見透かすように言葉を続けた。

「子どもたちはね、細かい音の正確さなんて気にしないよ」
「そのときの空気に合わせて、楽しく音を鳴らしてくれたら、それで充分」
「即興レベルで構わない。むしろ、その方が面白いんだ」

「……」

璃子は、そっと息を吸い込む。

不安がゼロではない。
でも、今までとは違う“ピアノとの向き合い方”が、そこにある気がした。

「リハビリとしては、あり……かもしれない」

小さくつぶやくと、湊がすぐに言った。

「俺も一緒にいるよ、ずっと」
「もし途中でしんどくなったら、すぐ交代するし」
「そのときは……璃子は子どもたちと一緒に、歌ってて」

「……ふふっ」

その一言に、璃子は思わず吹き出した。

(そんな姿、想像もできないのに)

でも、湊とならできるかもしれない。
無理をしなくていいなら、挑戦してみたい。

璃子の胸の奥に、ほんのり灯る光。
それは「再出発」を告げる、小さな、でも確かな明かりだった。
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