世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
秋の午後、都内一等地にある音楽事務所「SOUND ORBIT」のビルに足を踏み入れた瞬間、璃子は思わず小さく息を飲んだ。
白を基調とした内装は静かに洗練され、壁には歴代所属アーティストたちの演奏写真が美しく額装されている。
天井から柔らかく降り注ぐ間接照明に、音のない音楽が流れているような不思議な空気が漂っていた。
「ようこそ、朝比奈璃子さん」
受付で名乗ると、すぐに案内された応接室も、無駄のない上質な空間だった。
大理石のテーブルに、重厚感のあるソファ。
香り立つ紅茶が運ばれ、璃子は少しだけ背筋を伸ばした。
ほどなくして、ドアがノックされ、黒のスーツを着た男性が入ってきた。
「矢代正輝です。お会いできて光栄です」
静かな声と共に差し出された手。
璃子は、やや緊張しながらも握り返した。
聞いていた通り、第一印象は「クール」そのものだった。
鋭い目元と整った所作。
だがその奥に、観察力のある静かな誠実さが感じ取れた。
「璃子さん」
そう声をかけたのは、彼の後から入ってきた別の男性――事務所の社長だった。
「お父さんとは長い付き合いでね。昔はよく、深夜までスタジオにこもってさ。今でも“天才プロデューサー”なんて呼んでる人がいるくらいだよ」
快活な笑みを浮かべたその男――中年だが洒落たスーツに身を包み、会話のテンポも軽妙だった。
名は佐伯啓二(さえきけいじ)。
かつて聡一と共に音楽番組の演出を手がけ、現在は事務所の運営と若手アーティストのプロデュースを担っているという。
「璃子さんが復帰されるタイミングで、矢代をつけることにしたのはね。技術のことも、業界の流れも、人の心の動きも、全部見られる人間だから」
佐伯が笑顔でそう言うと、矢代はほんの少し、口角を上げて璃子に目を向けた。
「……テレビの件、湊からも聞いています。事前に内容のすり合わせを行えば、ああいう事態は避けられるはずです。メディア対応は私が全て管理します。璃子さんには音楽に集中していただきたい」
その言葉に、璃子は自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
「矢代さん」
「はい」
「……怖そうって、言われません?」
社長が吹き出しそうになりながら紅茶を口に運び、矢代は一瞬だけ視線を落とした。
「……時々」
璃子も思わず笑ってしまった。
まだぎこちないけれど、ここから始まる新しい一歩が、確かに自分の足元にある――そんな予感がした。
白を基調とした内装は静かに洗練され、壁には歴代所属アーティストたちの演奏写真が美しく額装されている。
天井から柔らかく降り注ぐ間接照明に、音のない音楽が流れているような不思議な空気が漂っていた。
「ようこそ、朝比奈璃子さん」
受付で名乗ると、すぐに案内された応接室も、無駄のない上質な空間だった。
大理石のテーブルに、重厚感のあるソファ。
香り立つ紅茶が運ばれ、璃子は少しだけ背筋を伸ばした。
ほどなくして、ドアがノックされ、黒のスーツを着た男性が入ってきた。
「矢代正輝です。お会いできて光栄です」
静かな声と共に差し出された手。
璃子は、やや緊張しながらも握り返した。
聞いていた通り、第一印象は「クール」そのものだった。
鋭い目元と整った所作。
だがその奥に、観察力のある静かな誠実さが感じ取れた。
「璃子さん」
そう声をかけたのは、彼の後から入ってきた別の男性――事務所の社長だった。
「お父さんとは長い付き合いでね。昔はよく、深夜までスタジオにこもってさ。今でも“天才プロデューサー”なんて呼んでる人がいるくらいだよ」
快活な笑みを浮かべたその男――中年だが洒落たスーツに身を包み、会話のテンポも軽妙だった。
名は佐伯啓二(さえきけいじ)。
かつて聡一と共に音楽番組の演出を手がけ、現在は事務所の運営と若手アーティストのプロデュースを担っているという。
「璃子さんが復帰されるタイミングで、矢代をつけることにしたのはね。技術のことも、業界の流れも、人の心の動きも、全部見られる人間だから」
佐伯が笑顔でそう言うと、矢代はほんの少し、口角を上げて璃子に目を向けた。
「……テレビの件、湊からも聞いています。事前に内容のすり合わせを行えば、ああいう事態は避けられるはずです。メディア対応は私が全て管理します。璃子さんには音楽に集中していただきたい」
その言葉に、璃子は自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
「矢代さん」
「はい」
「……怖そうって、言われません?」
社長が吹き出しそうになりながら紅茶を口に運び、矢代は一瞬だけ視線を落とした。
「……時々」
璃子も思わず笑ってしまった。
まだぎこちないけれど、ここから始まる新しい一歩が、確かに自分の足元にある――そんな予感がした。