世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

名乗らない音楽

――会場の照明が、唐突に落ちた。

その瞬間、観客席には小さなどよめきが走った。
「えっ、もう始まるの?」「暗くない?」
「演出かな……」
ざわめきと囁き声が、やがて沈黙へと変わっていく。

ピアノが置かれたステージは、ほんのわずかな照明だけが落とされ、
薄く差し込むバックライトの中、
シルエットだけの人物がゆっくりと現れる。

その姿は誰ともわからない。
ただ、静かな気配をまとってそこに「在る」だけだった。

顔も、衣装も、照明もない。
華やかな紹介も、司会の声もない。

ただひとつ、
舞台の中央に、静けさを連れて、
ピアニストが現れた。

客席では、一人、また一人と息を呑んで見つめる。
「誰……?」「え、まさか……」「あのシルエット……」

──そして。

ひと呼吸ののち、
ステージに置かれたグランドピアノの鍵盤から、
ひとつめの音が静かに、
けれどはっきりと鳴った。

まるで、その音が合図であるかのように、
会場の空気が一気に引き締まる。
観客たちはそれ以上、何も言えなかった。
それほどに、たった一音で空気が変わった。

息遣いすら許されないような静寂の中──
その音楽が、名前のないまま、舞台を支配しはじめていた。

そして誰もが確信する。

「これ、朝比奈璃子じゃないか?」

だが、誰も声には出さない。
それがこの“シークレット”の意味だと、無意識に察していたから。

拍手はまだ起きない。
ただ、息を殺して聴く。
シルエットの中の女性が放つ、音の魔法に。
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