世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ホテルの控室に、薄暗い静けさが満ちていた。
本番まで、あと数分。
朝比奈璃子は、音ひとつ立てぬように深く椅子に腰掛け、シークレットゲストとして息を潜めていた。

控室の扉がノックされ、小さな声で案内が入る。
「お時間です。導線、ご案内します」

誘導に当たるのは、最小人数のホテルスタッフとマネージャー矢代のみ。
わずかに胸元に揺れる照明バッジが、ステージ裏の暗がりを導く灯となった。

璃子はうなずき、立ち上がる。
視線は落ち着いているように見えたが、その指先はわずかに震えていた。

舞台袖へたどり着いたそのとき。
そこには、すでに湊が立っていた。

暗がりのなか、彼は何も言わずに璃子の前に立ち、両手をそっと取る。
その手は、いつもと変わらず温かくて、しっかりと力強い。

「深呼吸して」
優しい声が、舞台のざわめきから彼女を遮るように響いた。
「大丈夫。ちゃんと準備してきたんだから」

璃子は頷き、目を閉じる。
一度、深く息を吸い、ゆっくり吐く。
そしてもう一度──

湊は彼女の指を包むように握り、そっと囁いた。
「今日は、入りが暗いから気をつけて。
 でも、最初の一音で空気を変えてやればいい。……璃子ならできる」

璃子はその言葉に、小さく笑ってみせた。

その様子を、少し離れた場所で矢代がそっと見守っていた。
物音を立てぬよう、ただ静かに。
そこにはもう、ただの“事務所マネージャー”ではなく、ひとりの支援者としての眼差しがあった。

舞台では、MCの声が静かにフェードアウトしていく。

そして照明が落ちる――
客席がざわめきを止めたそのとき、
静かな足音がステージへと響いた。

シルエットだけの登場。
名前のないゲストピアニスト。
その正体が、今、静寂のなかに足を踏み入れる。

舞台の空気が、変わる瞬間が、すぐそこにあった。
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