世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
電話を切った璃子は、スマートフォンを伏せて、静かに息を吐いた。
さっきまで穏やかだった胸の奥に、また重たい石が落ちてくる。

「……やっぱり、話すんじゃなかったな」

呟くと、ソファに座っていた紀江が、そっと手元のカップをテーブルに置いた。
湯気の立つ紅茶が、部屋の温かさにとけるように揺れている。

「言いたいこと、言えたの?」

璃子はふるりと首を横に振る。

「……言おうとして、結局うまく言えなかった。
ちゃんとぶつかる前に、わたしが引いちゃう。
そうすると……お母さんの正論が、正しくなっちゃうの」

紀江は立ち上がり、璃子の隣に座る。
そっと、肩を抱いた。優しく、でもしっかりと。

「璃子。あの子はね、自分の思いを押しつけてるつもりは、たぶんないのよ。
“あなたのため”って本気で信じてるの。そこが、余計に苦しいわよね」

璃子は、黙ってうなずいた。
紀江の香りは、どこかハーブのような、懐かしい匂いがした。

「わたし、お母さんにピアノ以外のこと話すと、“そんなの無駄”って言われちゃって。
好きなこと、あってもいいのかなって思うと……なんだか、悪いことしてるみたいで」

紀江は笑った。
目尻に刻まれたシワが、優しく光に浮かぶ。

「璃子。好きなことがあるのは、生きてる証拠よ。
無駄なんかじゃない。むしろ、それが“あなた自身”なの」

璃子は、祖母の胸元にそっと額を預けた。
柔らかな生地のカーディガンに触れた瞬間、涙がひとすじ、すっと頬を伝った。

「……おばあちゃん、もしわたしがピアノから離れたら、失望する?」

紀江はすぐに答えなかった。
代わりに、璃子の背中を何度かゆっくりとさすり、それから囁くように言った。

「璃子。あなたがどんな道を選んでも、私はあなたの味方。
失望なんて、するはずがないわ」

璃子の胸の奥に、あたたかいものが満ちてくる。

紀江は続けた。

「人の期待に応えようとしすぎて、自分をなくさないでね。
“正しい人生”なんてものは、誰にも決められない。
あなたの心が、静かに微笑める時間を、ちゃんと選んでほしいの」

璃子は小さくうなずいた。

「……ありがとう。おばあちゃんの部屋に来ると、深呼吸できる。
外の音が、ぜんぶ遠くなる」

紀江は微笑む。

「それはあなたの心が、やっと自分に耳をすませてるからよ。
ここはいつでも、あなたの避難所だからね」

冬の陽だまりの中で、璃子はもう一度、深く息を吸った。
まるで、止まっていた時間が、すこしだけ前に進んだ気がした。
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