世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
璃子は、ガラス張りの大きな窓辺に立っていた。
祖母・紀江の暮らすマンションのリビングは、床暖房でぽかぽかと温かく、眼下には冬晴れの街が広がっている。
穏やかなクラシックが小さく流れる中、テーブルに置いてあったスマートフォンが震えた。
表示された名前を見て、璃子は一度まぶたを閉じ、着信に出る。
「……もしもし」
『あ、璃子? 今、話せる?』
変わらない声。
何よりも変わらず、「内容を聞く前に指示が飛ぶ」のが、母・由紀子だった。
『練習、ちゃんとできてるでしょうね? 正月ボケなんて許されないわよ』
璃子は窓の外を見つめたまま、柔らかく言葉を返す。
「うん。……今朝も少しだけど、やったよ。
昨日までは、ちょっと祖母とゆっくりしてて」
『“少しだけ”じゃ意味ないのよ。今さら本気出しても遅いって言われるくらいなんだから。
……おばあさま、どう? 相変わらず甘やかしてる?』
「……いいの。ここは落ち着くから」
返答に棘はなくても、言外にはっきりとした拒絶が混じっていた。
けれど、由紀子は気づいたような、気づかないふりをしたような曖昧さで話を続ける。
『コンクールの曲、テンポ落ちてきてない? 最近、ちょっと走らせすぎな傾向あるから注意しなさい』
璃子は小さく笑う。
「お母さん、音源チェックしてたんだ?」
『当然でしょ。あなたの一番の理解者だと思ってるけど?』
その言葉に、璃子の笑みは少し陰る。
「……ねえ、お母さん」
『なに?』
「もし、わたしが……ピアノを辞めたいって言ったら、どうする?」
沈黙。
タワーマンションの静けさと、通話の無音が交差する。
『なにそれ。意味がわからない。辞めて、どうするの?』
「別の仕事とか。服のこと勉強して、ショップで働いたりとか。
……笑わないでね、ちゃんと考えたこともあるの」
母の吐息が、かすかにマイクをくぐる。
『あなたが、そんな“普通”で満足できるわけがない。
ピアノがなかったら、あなたはただの……』
璃子は遮るように言った。
「“ただの何”なの?」
由紀子は、言い淀む。
璃子はそっと言葉を重ねた。
「お母さんが信じてる“璃子像”と、今の私、ちょっと違うかもしれない。
ピアノを弾くのは好き。だけどそれだけじゃ、息が詰まるときもあるの」
由紀子は、数秒後、ようやく口を開く。
『……逃げるなら、ちゃんと結果を出してからにして。
途中で放り出すようなことは、誰のためにもならないから』
「……うん。わかってる。練習は、するよ」
それが精いっぱいだった。
電話を切ると、璃子は深く息を吐き、背後のソファに座る祖母・紀江の方を見た。
紀江は何も言わずに紅茶を差し出す。
「……ありがとう、おばあちゃん」
窓の外、冬の陽光に街が静かにきらめいていた。
祖母・紀江の暮らすマンションのリビングは、床暖房でぽかぽかと温かく、眼下には冬晴れの街が広がっている。
穏やかなクラシックが小さく流れる中、テーブルに置いてあったスマートフォンが震えた。
表示された名前を見て、璃子は一度まぶたを閉じ、着信に出る。
「……もしもし」
『あ、璃子? 今、話せる?』
変わらない声。
何よりも変わらず、「内容を聞く前に指示が飛ぶ」のが、母・由紀子だった。
『練習、ちゃんとできてるでしょうね? 正月ボケなんて許されないわよ』
璃子は窓の外を見つめたまま、柔らかく言葉を返す。
「うん。……今朝も少しだけど、やったよ。
昨日までは、ちょっと祖母とゆっくりしてて」
『“少しだけ”じゃ意味ないのよ。今さら本気出しても遅いって言われるくらいなんだから。
……おばあさま、どう? 相変わらず甘やかしてる?』
「……いいの。ここは落ち着くから」
返答に棘はなくても、言外にはっきりとした拒絶が混じっていた。
けれど、由紀子は気づいたような、気づかないふりをしたような曖昧さで話を続ける。
『コンクールの曲、テンポ落ちてきてない? 最近、ちょっと走らせすぎな傾向あるから注意しなさい』
璃子は小さく笑う。
「お母さん、音源チェックしてたんだ?」
『当然でしょ。あなたの一番の理解者だと思ってるけど?』
その言葉に、璃子の笑みは少し陰る。
「……ねえ、お母さん」
『なに?』
「もし、わたしが……ピアノを辞めたいって言ったら、どうする?」
沈黙。
タワーマンションの静けさと、通話の無音が交差する。
『なにそれ。意味がわからない。辞めて、どうするの?』
「別の仕事とか。服のこと勉強して、ショップで働いたりとか。
……笑わないでね、ちゃんと考えたこともあるの」
母の吐息が、かすかにマイクをくぐる。
『あなたが、そんな“普通”で満足できるわけがない。
ピアノがなかったら、あなたはただの……』
璃子は遮るように言った。
「“ただの何”なの?」
由紀子は、言い淀む。
璃子はそっと言葉を重ねた。
「お母さんが信じてる“璃子像”と、今の私、ちょっと違うかもしれない。
ピアノを弾くのは好き。だけどそれだけじゃ、息が詰まるときもあるの」
由紀子は、数秒後、ようやく口を開く。
『……逃げるなら、ちゃんと結果を出してからにして。
途中で放り出すようなことは、誰のためにもならないから』
「……うん。わかってる。練習は、するよ」
それが精いっぱいだった。
電話を切ると、璃子は深く息を吐き、背後のソファに座る祖母・紀江の方を見た。
紀江は何も言わずに紅茶を差し出す。
「……ありがとう、おばあちゃん」
窓の外、冬の陽光に街が静かにきらめいていた。