世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夜遅く、朝比奈家のリビング。
聡一はソファに深く腰掛け、疲れた顔で妻の由紀子を見つめた。

「大丈夫か、璃子は…」
声は低く、穏やかだが、その奥には確かな不安が滲んでいる。

由紀子はゆっくりと首を横に振った。
「問題ないわよ。今は彼女のこと、私がちゃんと見てるから」
その口調は冷静で、どこか突き放すような響きがあった。

聡一はその返事にすぐに追及はしなかった。
言葉を選びながら、妻の機嫌を損ねないように気を遣う。
「そうか…でも、無理はしてないのか? 由紀子」

「無理も何も、これが璃子の道なのよ。私たちがついていくだけ」
彼女の瞳は厳しく、決して揺るがない意志を示していた。

聡一は短く息をつき、微かに視線を落とす。
心の中では娘への思いが渦巻くが、妻の強さの前にどうしていいかわからず、ただ遠巻きに見守るしかない自分を自覚していた。

「俺もできることがあれば…」
言葉が途切れ、無力感が顔をよぎる。

「ありがとう。でも、今は私がやるの」
由紀子はそう言い切ると、軽く笑みを浮かべたが、その笑顔には疲れが滲んでいた。

聡一は黙って頷き、静かに立ち上がる。
「何かあれば声をかけてくれ」

「わかってる」
由紀子の声には、頼りきれない夫への諦めも混じっていた。

そのまま聡一は部屋を後にした。
彼が本当に璃子のために何かできるかは、自分でもわからなかった。
ただ、遠くから見守るしかない。

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