世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
コンクール本番までの数日間、璃子の生活は練習に染まっていた。
食事の間も、箸が止まることは少なかった。
味わうというより、ただ腹を満たすための動作にすぎず、目は無意識に次のフレーズを思い描く。

「もう少し…ここを完璧にしなければ」
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥にちらつくのは、ピアノが好きで弾いていた頃の楽しい感覚ではなく、義務感と焦りだった。

風呂場でも同じだった。湯気に包まれながら指の動きを反芻し、次の練習のイメージトレーニングに余念がない。
一日の疲れも感じるはずなのに、心はまだ鍵盤の前にいる。

「こんなに頑張っても…」
と、わずかに漏れる弱音はすぐに飲み込み、必死で心を奮い立たせた。

夜、パジャマにも着替えずピアノに向かう姿は、どこか孤独で、時折胸が締め付けられる。
「湊さんのために。あの人と一緒に奏でるために」
そんな想いが唯一の支えだった。

練習が終わるころには体中が疲れ切っているのに、心はまだざわつき、眠りにつくのをためらっていた。

隣の部屋でその姿を見つめる由紀子。
娘の真剣さに満足し、安堵のような感情がこみ上げる。
「これでよかったのね」
と、自分の期待が形になりつつあることに胸をなでおろす。

しかし、どこかで璃子の疲れた表情や、小さな弱音を聞き逃してはいない。
「もう少しでいい。もう少しだけ頑張りなさい」
自分の中の完璧主義が、優しさを押し殺して声をかける。

璃子は気づかない。
その「もう少し」がどれほど自分を苦しめているかを。
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