世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
控室の空気は張りつめていた。
かすかな風がうなじを撫でるたびに、璃子の背筋は微かに震えた。
深紅のドレスが肌にまとわりつき、呼吸すら重たく感じる。
由紀子は、すぐ近くの椅子に腰かけながらも、手帳を何度も見直しては、足元の小さなバッグの中身を確認している。
落ち着かないのは明らかだった。
だがそれは娘を思ってのことではない。
演奏の「成果」にすべてが懸かっているという、あの人なりの緊張だ。
「璃子、会場の確認はしっかりね。演奏に集中できるように、今は余計なことを考えないのよ」
声は平静だったが、瞳は強く、少し苛立ってもいた。
その言葉に、璃子の胸の奥にまたひとつ、重たい錘が落ちる。
少し離れた場所で静かに座っていた湊が、そっと立ち上がる。
「そろそろ見てきましょうか」
璃子は、ぐっと指を握った。
心臓が、少しだけ跳ねる。
演奏の緊張もある。でも――
それだけじゃない。
彼と二人で歩く。
それが、いまの自分にとってどれほど特別なことか。
ただ横にいるだけで、鼓動がうるさくなるのに。
どうして湊の前だと、演奏とは別の意味でこんなに緊張してしまうんだろう。
静かな廊下を歩きながら、彼がふと璃子の横顔を覗く。
「大丈夫ですよ。あなたなら、きっと大丈夫ですから」
その言葉に、璃子はまた胸がいっぱいになった。
「……ありがとうございます」
と、言う声は少し掠れていた。
本当は、今すぐにでも不安を打ち明けたかった。
怖い、どうしよう、ちゃんと弾けるかな――
でもそれ以上に、
「あなたがいるから大丈夫」
そう思わせてくれる存在でいてくれることが、嬉しかった。
舞台袖のピアノの前に立つと、湊が優しく囁いた。
「軽く音を出しておきましょう。スケールから、下から上へ」
璃子は鍵盤に手を置く。冷たい。
けれど、すぐに彼が整えた音色が指先を包み込んだ。
低音から高音へ、ゆっくりと、なめらかに。
音が、波のように広がっていく。
それはまるで、湊と心で会話しているような感覚だった。
「いい音です」
横からそっとささやかれる彼の声が、空気よりも優しく響いた。
鼓動がまたひとつ跳ねた。
――この人となら、頑張れる。
たとえ母の期待のためじゃなくても。
この人の信頼に、応えたい。
ただ、それだけでもいい。
璃子は、小さく笑った。
ほんの一瞬、ピアノの前にいる自分が、心から好きだと思えた。
かすかな風がうなじを撫でるたびに、璃子の背筋は微かに震えた。
深紅のドレスが肌にまとわりつき、呼吸すら重たく感じる。
由紀子は、すぐ近くの椅子に腰かけながらも、手帳を何度も見直しては、足元の小さなバッグの中身を確認している。
落ち着かないのは明らかだった。
だがそれは娘を思ってのことではない。
演奏の「成果」にすべてが懸かっているという、あの人なりの緊張だ。
「璃子、会場の確認はしっかりね。演奏に集中できるように、今は余計なことを考えないのよ」
声は平静だったが、瞳は強く、少し苛立ってもいた。
その言葉に、璃子の胸の奥にまたひとつ、重たい錘が落ちる。
少し離れた場所で静かに座っていた湊が、そっと立ち上がる。
「そろそろ見てきましょうか」
璃子は、ぐっと指を握った。
心臓が、少しだけ跳ねる。
演奏の緊張もある。でも――
それだけじゃない。
彼と二人で歩く。
それが、いまの自分にとってどれほど特別なことか。
ただ横にいるだけで、鼓動がうるさくなるのに。
どうして湊の前だと、演奏とは別の意味でこんなに緊張してしまうんだろう。
静かな廊下を歩きながら、彼がふと璃子の横顔を覗く。
「大丈夫ですよ。あなたなら、きっと大丈夫ですから」
その言葉に、璃子はまた胸がいっぱいになった。
「……ありがとうございます」
と、言う声は少し掠れていた。
本当は、今すぐにでも不安を打ち明けたかった。
怖い、どうしよう、ちゃんと弾けるかな――
でもそれ以上に、
「あなたがいるから大丈夫」
そう思わせてくれる存在でいてくれることが、嬉しかった。
舞台袖のピアノの前に立つと、湊が優しく囁いた。
「軽く音を出しておきましょう。スケールから、下から上へ」
璃子は鍵盤に手を置く。冷たい。
けれど、すぐに彼が整えた音色が指先を包み込んだ。
低音から高音へ、ゆっくりと、なめらかに。
音が、波のように広がっていく。
それはまるで、湊と心で会話しているような感覚だった。
「いい音です」
横からそっとささやかれる彼の声が、空気よりも優しく響いた。
鼓動がまたひとつ跳ねた。
――この人となら、頑張れる。
たとえ母の期待のためじゃなくても。
この人の信頼に、応えたい。
ただ、それだけでもいい。
璃子は、小さく笑った。
ほんの一瞬、ピアノの前にいる自分が、心から好きだと思えた。