世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
パーソナルカラー講座の帰り道、璃子と千紗は、通り沿いにあるこぢんまりとしたイタリアンレストランに立ち寄った。

平日の夕方、店内はほどよく空いていて、テーブルの上には揺れるキャンドルと小さな花瓶に飾られたスイートピーの花。

「ここ、雰囲気いいね」
璃子がメニューを見ながら微笑むと、千紗も頷いた。
「前から気になってたの。落ち着いて話せそうな場所、たまには必要でしょ?」

オーダーを済ませて、前菜が運ばれてくると、ふたりの間にゆったりとした会話が流れ出す。

璃子は、グラスの水に指先を添えながら、少しだけ目線を伏せて切り出した。

「実はね……この前のコンクール、予選一位だったの」

千紗の目が驚きと喜びでぱっと輝いた。
「えっ、すごいじゃない!やっぱり璃子、やったんだね」

「うん……ありがとう」
璃子は柔らかく笑ったけれど、その笑みの奥に、どこか言葉を選ぶような慎重さが滲んでいた。

「でも……すぐに次のステージ。フランスでの本選。母がもう、どんどん先の話ばっかりしてて……ちょっと苦しい時がある」

「……うん、わかる。そんな気する。」
千紗は口元に手を添え、璃子の表情をじっと見つめた。

「もちろん、支えてくれてるのはすごくありがたいし、感謝もしてる。でも最近、自分の気持ちより母の期待が先に来ちゃって……なんだろう、勝つたびに怖くなっていく感じ」

璃子の声は落ち着いていたけれど、言葉の隙間に、押し込めていた葛藤が少しずつ顔を出す。

「でもね……調律師の人がいるの。湊さんっていうんだけど」

璃子はふっと笑って、少し頬を赤らめる。
「いつも淡々としてるけど、ほんとに音に真剣で、私の体の負担とか、指の使い方とかも細かく見てくれて。……最近、その人の存在が、なんていうか、支えになってて」

「……あ、そういう感じの?」
千紗がにやりと笑うと、璃子は少し慌てて首を振った。

「ち、ちがうっていうか……!いや、違わないのかな……」
そう言いながらも、どこか安心したような顔で、璃子はテーブルの端に視線を移す。

「でもね、音楽関係の人って狭いの。先生も先輩も、演奏仲間も……誰がどこで何を言うか分からない。下手に話したら、母や父に伝わっちゃうかもしれないって、いつも気を張ってる」

千紗は、手を止めて、まっすぐ璃子を見る。
「じゃあ今こうして話してくれてるの、特別ってこと?」

「うん……千紗は、ピアノじゃない世界の人だから。安心できる」

千紗はグラスを軽く掲げて微笑む。
「任せて。わたしの耳は、金庫と一緒よ」

その一言に、璃子は小さく吹き出し、肩の力を抜いた。

「ほんと、ありがとう。話せてよかった」

その夜の食事は、きらびやかな音楽の舞台とはかけ離れた、静かでぬくもりのある時間だった。
璃子にとって、それは久しぶりに“自分のまま”でいられる大切なひとときだった。

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