世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
玄関のドアを静かに閉めると、ほんのりと花の香りが鼻先をかすめた。
母・由紀子が活けたであろう季節の花が、ホールの隅にきちんと飾られている。
どこまでも整えられた家。
心の置き所がないほどに、完璧な空間。
「おかえりなさい」
リビングから声がかかった。声の主はやはり、母だった。
「そろそろ練習に戻りなさいよ」
間髪入れずに言われたその言葉に、璃子の肩がわずかに揺れる。
「本選までそんなに時間、ないんだからね」
母の声は穏やかで、責めているわけではない。けれど、その「当然」としての期待が、静かに胸に重くのしかかってくる。
「……うん、わかってる」
璃子は靴を脱ぎながら答えた。
なるべく声に疲れを滲ませないように。
リビングへ入ろうとしたそのとき、母がふと付け足した。
「そうそう、明日、湊さん来るって。調律の確認に」
その言葉を聞いた瞬間、璃子の中で、何かが揺れた。
息が止まりそうなほどの重圧と、ほんの少し滲んだ、救いの光。
――また、ピアノの前に戻らなきゃ。
あの椅子に座って、あの鍵盤に指を落とす。自分が「天才ピアニスト」であることを、再び演じ直す日々。
正直、気が重い。
ほんの数日の“自由”が、どれほどの開放感だったか。
もうあの時間には戻れない。
そう思うと、胸の奥に冷たいものが流れ込んでくる。
けれど――
湊さんが来る。
あの冷静な目と、確かな手と、音の中に宿る優しさが、またそばにある。
彼の前では、自分の不調や不安を無理に隠さなくていい。
ピアニストである前に「人間」として、彼は自分を見てくれている。
璃子は、階段をゆっくりと上がった。
今日一日、ようやく取り戻した「自分」という感覚が、また薄れていくのを感じながら。
でも明日、湊に会える。
それだけが、薄暗い水の中に沈みかけた心に、かすかな浮力を与えていた。
母・由紀子が活けたであろう季節の花が、ホールの隅にきちんと飾られている。
どこまでも整えられた家。
心の置き所がないほどに、完璧な空間。
「おかえりなさい」
リビングから声がかかった。声の主はやはり、母だった。
「そろそろ練習に戻りなさいよ」
間髪入れずに言われたその言葉に、璃子の肩がわずかに揺れる。
「本選までそんなに時間、ないんだからね」
母の声は穏やかで、責めているわけではない。けれど、その「当然」としての期待が、静かに胸に重くのしかかってくる。
「……うん、わかってる」
璃子は靴を脱ぎながら答えた。
なるべく声に疲れを滲ませないように。
リビングへ入ろうとしたそのとき、母がふと付け足した。
「そうそう、明日、湊さん来るって。調律の確認に」
その言葉を聞いた瞬間、璃子の中で、何かが揺れた。
息が止まりそうなほどの重圧と、ほんの少し滲んだ、救いの光。
――また、ピアノの前に戻らなきゃ。
あの椅子に座って、あの鍵盤に指を落とす。自分が「天才ピアニスト」であることを、再び演じ直す日々。
正直、気が重い。
ほんの数日の“自由”が、どれほどの開放感だったか。
もうあの時間には戻れない。
そう思うと、胸の奥に冷たいものが流れ込んでくる。
けれど――
湊さんが来る。
あの冷静な目と、確かな手と、音の中に宿る優しさが、またそばにある。
彼の前では、自分の不調や不安を無理に隠さなくていい。
ピアニストである前に「人間」として、彼は自分を見てくれている。
璃子は、階段をゆっくりと上がった。
今日一日、ようやく取り戻した「自分」という感覚が、また薄れていくのを感じながら。
でも明日、湊に会える。
それだけが、薄暗い水の中に沈みかけた心に、かすかな浮力を与えていた。