世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
調律を終えて、湊はしばらく椅子に腰かけ、黙って彼女の演奏を見つめていた。
部屋に響くのは、端正でいて、どこか研ぎ澄まされた音。
ミスタッチひとつなく、完璧に整えられた響き。
――それなのに、どこか、気になった。
湊はそっと視線を下げ、彼女の右手の動きに意識を集中させる。
指の運びは滑らかだ。
けれど、ひとつひとつの鍵盤に触れるとき、ほんのわずかに、力の流れが変わるのを感じた。
無意識のうちに、負荷を逃がすような――庇っているような。
その夜、工房の一角。
湊は仕事終わりの食事をとりながら、ふと創に切り出した。
「今日、璃子さんの練習を見てて、ちょっと気になることがあったんだ」
「ほう?」
湊は、箸を置き、手首のあたりを指し示しながら言った。
「右手の使い方……ちょっと、庇ってるような感じがしてさ。たとえばアルペジオとか、速いスケールのあたりで、ときどき無意識に手首の角度変えて逃がしてる」
創は一瞬黙り、湊の顔をじっと見た。
そして、ふっと小さく頷く。
「ああ……あの子、昔、右手よく痛めててな」
「……やっぱり」
「高校のときだったか、毎日十時間以上弾いてて、結構ひどくやったんだ。腱鞘炎一歩手前って言われて、しばらく氷で冷やしながら練習してた」
湊は眉をひそめた。
「それ以来、手首の角度とか、運指の取り方には人一倍気をつけてた。最近は、何ともなさそうに見えてたけどな……。癖なんだろうな。もしかしたら、また痛みが出始めてるのかもしれん」
湊はうつむき、真剣な顔で考え込んだ。
「……音だけじゃ、わからないんだよな。あの人の演奏、どんなときでも完璧だから。でも、手元を見てると……、やっぱり、どこか違和感がある」
創は微笑を浮かべる。
「よく気づいたな。さすがだ、湊。父親の俺より、目が利く」
「……ただ、ちょっと心配なんだ。今はまだ我慢して弾いてるけど、あれ以上負荷がかかれば、たぶん限界が来る。気づいてやれる人、周りにいないだろうし」
「由紀子さんは“痛い”なんて言葉、絶対に認めないだろうしな」
創は皮肉交じりに苦笑した。
湊はうなずく。
「俺、明日もう一度、ピアノの下見てみる。椅子の高さと姿勢、見直す余地あるかもしれない。もし少しでも負担が減らせるなら……」
創はその横顔を見ながら、静かに言った。
「……あの子のこと、ずっと見ててやれ」
湊は小さく息を吸い、頷いた。
ピアノの音を守るだけじゃない。
その手を、彼女自身を、壊させはしない。
部屋に響くのは、端正でいて、どこか研ぎ澄まされた音。
ミスタッチひとつなく、完璧に整えられた響き。
――それなのに、どこか、気になった。
湊はそっと視線を下げ、彼女の右手の動きに意識を集中させる。
指の運びは滑らかだ。
けれど、ひとつひとつの鍵盤に触れるとき、ほんのわずかに、力の流れが変わるのを感じた。
無意識のうちに、負荷を逃がすような――庇っているような。
その夜、工房の一角。
湊は仕事終わりの食事をとりながら、ふと創に切り出した。
「今日、璃子さんの練習を見てて、ちょっと気になることがあったんだ」
「ほう?」
湊は、箸を置き、手首のあたりを指し示しながら言った。
「右手の使い方……ちょっと、庇ってるような感じがしてさ。たとえばアルペジオとか、速いスケールのあたりで、ときどき無意識に手首の角度変えて逃がしてる」
創は一瞬黙り、湊の顔をじっと見た。
そして、ふっと小さく頷く。
「ああ……あの子、昔、右手よく痛めててな」
「……やっぱり」
「高校のときだったか、毎日十時間以上弾いてて、結構ひどくやったんだ。腱鞘炎一歩手前って言われて、しばらく氷で冷やしながら練習してた」
湊は眉をひそめた。
「それ以来、手首の角度とか、運指の取り方には人一倍気をつけてた。最近は、何ともなさそうに見えてたけどな……。癖なんだろうな。もしかしたら、また痛みが出始めてるのかもしれん」
湊はうつむき、真剣な顔で考え込んだ。
「……音だけじゃ、わからないんだよな。あの人の演奏、どんなときでも完璧だから。でも、手元を見てると……、やっぱり、どこか違和感がある」
創は微笑を浮かべる。
「よく気づいたな。さすがだ、湊。父親の俺より、目が利く」
「……ただ、ちょっと心配なんだ。今はまだ我慢して弾いてるけど、あれ以上負荷がかかれば、たぶん限界が来る。気づいてやれる人、周りにいないだろうし」
「由紀子さんは“痛い”なんて言葉、絶対に認めないだろうしな」
創は皮肉交じりに苦笑した。
湊はうなずく。
「俺、明日もう一度、ピアノの下見てみる。椅子の高さと姿勢、見直す余地あるかもしれない。もし少しでも負担が減らせるなら……」
創はその横顔を見ながら、静かに言った。
「……あの子のこと、ずっと見ててやれ」
湊は小さく息を吸い、頷いた。
ピアノの音を守るだけじゃない。
その手を、彼女自身を、壊させはしない。