世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

気づかれたくて、気づかれたくない

「――じゃあ、次はショパン《バラード第4番》。アレグロ・コン・フォーコからいくわよ」

内田先生の指導は、いつになく熱を帯びていた。
アルテミス国際コンクール本選まで、あと二ヶ月。
予選の勢いを維持したまま、さらに表現を磨くことが求められる。

璃子は譜面を見つめ、深く息を吸って、鍵盤に指を置いた。

《バラード第4番 ヘ短調 op.52》。
技巧・構成力・感情表現――すべてを求められる大曲。
だが、それ以上に璃子にとってこの曲は、自分の中にある葛藤や不安と向き合うような感覚を伴うものだった。

「テンポ、少し急ぎすぎてる。焦りが音に出てるわよ」
「……はい」

冒頭に戻り、もう一度。

何度目かのアレグロ・コン・フォーコを弾いていたときだった。
右手の甲から手首にかけて、ピリッとした感覚が走った。
それは、音にならない、だが確かに存在する小さな異変。

(……まただ)

手首の奥に熱がこもるような感覚。
ここ最近、長時間の練習が続くと、決まってこれが出る。

痛いわけじゃない。
でも――違和感がある。

指の着地をほんのわずかにずらし、角度を調整する。
それで何とか痛みは逃せる。そう思ってきた。

(気のせい。……大丈夫)

けれど、今日は違った。
レッスン室の隅、ソファに腰かけていた由紀子の視線が――鋭い。

足を組み、膝の上で手を組み、整った姿勢のまま璃子を見ている。
その瞳には、一切の甘さも逃げ場もなかった。

(お母さんに、知られたら……)

「もう一度、アレグロから。左手の内声、もっと浮かせて。聴いてごらんなさい、自分で」
「……はい」

ピアノの椅子に深く座り直し、鍵盤の上に両手を置く。
右手に神経を集中させる。
痛くない。
――痛くない。

そう自分に言い聞かせるように、強く息を吐き出して弾き始めた。

内田先生の指導は信頼できる。厳しいが、芯がある。
けれど、今日のこの場で――由紀子の前で、右手が痛いなんて言えるはずがなかった。

(今、言ったら何を言われるかわからない)

「……今、右手、変な動きしたでしょ?」

ドキリとした。
思わず顔を上げると、内田先生と目が合った。
その目には、わずかな違和感と、それを見逃さない優しさが滲んでいた。

「いえ……なんでもないです。大丈夫です」

「そう。……じゃあ、続けましょうか」

内田先生はそれ以上は追及しなかった。

璃子は俯きながら、膝の上でそっと右手を握る。
(続けなきゃ。痛くても)

止まったら、何かが壊れてしまう。
そう感じていた。

母の視線は相変わらず、静かに、しかし確実に彼女を縛りつけている。

(でも……湊さんなら、気づいてくれるかな)

そんな甘えにも似た希望が、ふっと胸をよぎる。
けれどそれも、すぐに飲み込んだ。
今はまだ――誰にも言えない。
< 45 / 217 >

この作品をシェア

pagetop