世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
「じゃあ、今日はここまでにしましょうか」
内田先生が時計を見て立ち上がった。
「今週はかなり詰め込んでるから、ちゃんと休むのも練習のうちよ」
「……はい。ありがとうございました」
璃子は深く息をつきながら、手を膝に置いた。
少し、右手首に違和感があった。
でも、それを気取られるわけにはいかない。
そのとき、控えめにノックの音がした。
扉が開いて、湊が顔をのぞかせる。
「失礼します。今日、調律で伺っています」
「あら、金城くん。いいタイミングね。ちょうど終わったところよ」
「お疲れさまです」
内田先生が退出しようとしたとき、由紀子が立ち上がった。
「内田先生、フランスでのスケジュールについて少し相談があるのだけれど」
「ええ、では場所を移しましょうか」
ふたりはあっさりと部屋を出て行った。
部屋に残ったのは、璃子と湊だけ。
ピアノの上には水滴のついたグラスがぽつんと置かれていた。
璃子はもう一度椅子に座り直すと、少しだけ鍵盤に触れた。
「……復習、しておきたいところがあるの」
「うん、いいよ」
湊はいつものように、少し離れた位置に立った。
黙っているけれど、その視線が真剣だということは伝わってくる。
ショパンの《バラード第4番》。
難所に差し掛かると、自然と呼吸が浅くなっていく。
右手のあたりに、いつもとは違う重さを感じた。
けれど止まらない。
止まるわけにはいかない。
ふと、湊がこちらに近づいてきた気配がした。
「椅子、少し後ろにしてみない?」
「え……」
驚いて彼を見ると、彼は変わらぬ穏やかな声で続けた。
「今の動き、ちょっと窮屈そうだった。もう少し腕に余裕を持たせたほうが、疲れにくいかも」
「……うん」
彼の指示に従い、椅子を数センチ後ろに引く。
それだけで、少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
内田先生が時計を見て立ち上がった。
「今週はかなり詰め込んでるから、ちゃんと休むのも練習のうちよ」
「……はい。ありがとうございました」
璃子は深く息をつきながら、手を膝に置いた。
少し、右手首に違和感があった。
でも、それを気取られるわけにはいかない。
そのとき、控えめにノックの音がした。
扉が開いて、湊が顔をのぞかせる。
「失礼します。今日、調律で伺っています」
「あら、金城くん。いいタイミングね。ちょうど終わったところよ」
「お疲れさまです」
内田先生が退出しようとしたとき、由紀子が立ち上がった。
「内田先生、フランスでのスケジュールについて少し相談があるのだけれど」
「ええ、では場所を移しましょうか」
ふたりはあっさりと部屋を出て行った。
部屋に残ったのは、璃子と湊だけ。
ピアノの上には水滴のついたグラスがぽつんと置かれていた。
璃子はもう一度椅子に座り直すと、少しだけ鍵盤に触れた。
「……復習、しておきたいところがあるの」
「うん、いいよ」
湊はいつものように、少し離れた位置に立った。
黙っているけれど、その視線が真剣だということは伝わってくる。
ショパンの《バラード第4番》。
難所に差し掛かると、自然と呼吸が浅くなっていく。
右手のあたりに、いつもとは違う重さを感じた。
けれど止まらない。
止まるわけにはいかない。
ふと、湊がこちらに近づいてきた気配がした。
「椅子、少し後ろにしてみない?」
「え……」
驚いて彼を見ると、彼は変わらぬ穏やかな声で続けた。
「今の動き、ちょっと窮屈そうだった。もう少し腕に余裕を持たせたほうが、疲れにくいかも」
「……うん」
彼の指示に従い、椅子を数センチ後ろに引く。
それだけで、少しだけ、呼吸が楽になった気がした。