世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
「……なるほどね、右手の運び。あのあたりは、まだ精度が甘いって仰ってたわよ」

母が部屋に戻ってきたのは、湊とふたりきりでの時間が静かに流れていたほんの数分後だった。

由紀子の手には、きちんとメモの取られたノート。
内田先生との会話の内容を余さず拾ってきたのだろう。
「内田先生、あなたの右手の入り方にまだ不安があるって言ってたわ。とくにあの中盤の入り。あそこで音の密度が曖昧になるのは致命的よ」

母の視線は冷たいほど真っ直ぐだった。
まるで、ひとつの言い訳も許されないという強さがこもっていた。

「……わかってる」
声が震えないよう、璃子は意識して唇を結ぶ。

「本当に? あなた、またどこかで気を抜いてない? 予選で一位を取ったからって安心してるようじゃ、フランスでは恥をかくだけよ。二か月なんて、あっという間なんだからね」

湊がすぐそばにいるのに、母は一切気にする様子がなかった。

「この子、本番前になると、よく弱気になるのよ」
ふいに、由紀子が湊の方を見た。

「この前も、“もう辞めたい”なんて言い出して……ほんと困ったものよ。でも、あなた、しっかり背中を押してあげてちょうだいね。信頼してるわよ、金城さん」

……。

璃子の心臓が、内側で跳ねたように止まった。

この部屋で母が言った「辞めたい」という言葉は、思い出すだけでも喉の奥に鉄の味が広がる。

あの夜、どれだけ泣いたかも、どんなに言葉を飲み込んだかも、この人は何ひとつ覚えていないのだと思った。

それでも、湊は淡々とした声で応じた。
「……僕にできることは、させていただきます」

短く、静かに。
その声音が、璃子の胸にじんと沁みた。

彼がどう感じたかはわからない。

でも、その一言に、責任でも義務でもなく「自分の意志」がにじんでいる気がして、璃子はほんの少しだけ、救われたような気がした。
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