世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夜の静けさの中で、玄関の扉が静かに閉まった音がした。
母の帰宅を知りながら、璃子は息を詰めてリビングの隅で身を縮めていた。

ずっと隠してきた右手の痛み。
打ち明けるべきか、いや、打ち明ければ何が待っているか――璃子の胸の中は嵐のように揺れていた。

「おかえりなさい」
かすれた声。母の視線を避けて、テーブルの上を見つめた。

しばらくの沈黙。
そして、母は淡々と、でも確かに温度のある言葉を投げかけた。

「いつ話してくれるのかと思ってたけど、やっとね」

その一言は、あまりにもさらりと、しかし重く響いた。
璃子の胸の奥に、鋭い痛みが刺さる。

「知ってたの?」
震える声が漏れた。

「うん」
母は目を細めながら、長い間見つめていたものを隠さずに告げる。
「何十年も、あなたのことを見てきた。隠しきれるものじゃない」

その言葉は愛情のようでいて、同時に縛りつける縄のようだった。

「湊さんたちにも話したんでしょ?」
さらに追及する声。

璃子は言葉に詰まる。
「おばあちゃんに言ったら、わかってたみたいで」

「おばあちゃんなんて?」
母の冷たい声が響いた。

「あなたの夢をかなえるための道具じゃないのよ、璃子はって」
おばあちゃんが言ってたらしいその言葉を、由紀子は吐き捨てるように言った。

「私だって、あなたを道具だなんて思っていない」
その声に揺るぎない決意が宿る。

「でも、これはあなたの未来のため。私があなたの未来を作っているの」

「誰が何と言おうと、私はあなたのことが一番よ」

璃子の胸は締めつけられ、心の中で冷たい涙がゆっくりと落ちていくのを感じていた。

「アルテミスコンクール。新人ピアニストの登竜門よ」

「一位じゃなくてもいい。突破すれば世界的な道が開けるの」

「あなたは天才。璃子、わかる?」

母の言葉は煌めく希望のように見えて、璃子には重く、押しつぶす圧力の塊にしか感じられなかった。

「もう痛み止めを使えとは言わない」

「でも、あなたなら乗り越えられる」

「私がついている」

「ピアニストに特化した専門の医師をつけてあげる」

「コンクールが終わったら、休める」

言葉は優しいが、そこにあるのは期待と義務の重圧。

璃子の胸は締めつけられ、逃げ場のない檻の中に閉じ込められたようだった。

目を伏せて、涙をこらえながら、小さく頷くことしかできなかった。

心の奥で、もう自分は自由ではないと知りながら。

未来の扉は約束されているが、そこに続く道がどれほど痛みと葛藤に満ちているかを、誰も知らない。
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