世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
コンサートを終えて帰宅すると、家は静かだった。
けれどリビングの明かりがついている。
ソファに座っていた母が、こちらを振り向きもせずに言った。

「どうだった?」

コートを脱ぎながら答える。

「……まあ、何事もなく。普通に弾けたと思うよ」

母はテレビのリモコンを手にしたまま、乾いた声で続けた。

「コンサートはいいのよ、多少のミスがあっても許される。
でも、年明けのコンクールは違う。絶対に、ミスは許されないの。わかってるわね?」

わかってる。
言わなくても、ずっとそうしてきた。
でもそれを口に出せば、何かが壊れそうで。

「……うん。わかってるよ」

それだけ返した。

母はそれ以上何も言わなかった。
今日が、私の誕生日だということも。
「おめでとう」の一言も、なかった。

部屋に戻り、ドレスのジッパーを外す。
華やかな舞台の余韻は、とっくに消えていた。
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